個人記録をかいていたブログの方が、結構いろんな人に見られるようになり

多少の知り合いには公開していたものの、これからの生活で利害のある人に不特定多数さらされると思うと

思ったことをそのまま書けなくなる、それでは記録の意味がなくなると思いこのブログを立ち上げた。

あちらでは継続して日々の生活を記録するが、他の人が読んで楽しいのか楽しくないのかよくわからない

個人的なことを読書記録と合わせてこちらに書こうと思う。

 

先日SNSをぱらぱらと見ていると、とあるデザイン系雑誌の記事が目につきページを開いてみた。

すると昔の知り合いが特集されているではないか。

昔からよく頑張っていた人なので、おお、よく頑張ったねぇという気持とともに

どこか悔しさみたいな、僻みとはやや違うがもやっとしたものも心に残った。

 

デザイン系なのでコンペとかアワードとか表に出る機会が通常の仕事より多い職業だが

学生の頃から、誰かがアワードを取ったりコンペで表彰されたりすると、心の中にもやっとしたものが残った。

それは結構長く続いて、とても気分の悪い感情だった。

ちなみに遠い知り合いがとってもまあそこまで思わないし、「あの子昔から優秀だったもんなぁ」くらいに留まるが

身近で、素直に好きとは認められないような人がとると、暗い気持ちになった。

まあ今回の人は個人的には好きというほどでもないが一目置いている人でもあったので

そのもやっとした悔しさは次の日には消えた。

ただ私はマイナスな感情が発生するとすごく損した気分になり取り返したくなる。

今回もやっとさせられたのも、何かに昇華しないと気が済まない性分なのだ。

 

そして自動的に思考がめぐる。

「なぜ私はこの人に悔しいと思ったのだろう?この人は相応に努力をしていたのを知っているし、むしろあれだけ頑張っていたのなら、この結果は当然の対価だといえる。それに比べて私はそのデザインという分野において相応の努力という対価を払っていない、もちろんそれなりには頑張っているが、それなりにという話で自分でもとやかく言えないことは分かっている」

「そして私はデザインというものに、人生をかけて打ち込めないなと区切りをつけたのだ。なぜかというと、例えばプロダクトデザインであるならば、そのモノに対してたかが”モノ”と思ってしまうし、自分の全神経をかけてやりたいことではないと判断した。私は他にやりたいことがあって、デザインを片手間で続けている人間である。ただ一方でデザインを続けているのは、モノを見て感じてそれを心の中に貯めることは好きだし、必要に応じてその経験を自分の仕事にも活かす。デザインで大成したいという思いは薄い(そもそもデザインで大成ってなんだよとも思う)が、生きてる中で身につけたことを反映して、無理のない範囲で楽しく続けられたらいいかな」

そんな具合である。

なのでデザインに一本集中して頑張っているその人が評価されているのは当然だとも言える。

それでも心は自動的に考える。

「でもメディアに取り上げられたからといってその人のデザインが優れているとは限らない。そもそも最近はなんでもかんでもメディアが取り上げて、一つ一つの価値は薄まっているように感じるし、あの手のメディアというのは大概コネなのだから」

僻みからの言い訳なのも事実、内容も事実ではある。人前では言わない方がいい。

 

しかしメディアに取り上げられ評価される、ということに少なからず私が僻みを感じているのなら、

「それを目指せばいいじゃん」という話で、それに対し思うのが「メディアに評価されることのために頑張るのはめんどくさい」。

評価されるために全神経注ぐことはナンセンスだと、わかっているのだ。

そこで、なんか楽しくコツコツ続けてたら一発当たってあわよくば誰か評価もしてくれないかな、みたいなそういうことを考えていて虫がいい感じだ。

 

まあでも、評価されることを目指すのは置いといて、私も将来自分がどうなりたいかをよく考える良い機会だなと思った。

直近、3年後どうなりたいのか。

一つ大きなものは個人事業主として安定して仕事を手に入れたい。個人事業主でいたいのはフルリモートがいいから。

そしてできれば海外からの発注を増やしたい。南米でもヨーロッパでもアメリカでも。

前の会社に依存するのは嫌だなと思ったし、グローバルな感じがなんかかっこいいというミーハーな理由がある。

もちろん、前の会社から仕事があるだけでも有難いのだが。

そして自分が気持ち良い人と仕事をしたいというのも少しあるが、必ずしも必要ではない。

それよりか気持ち良くできないけど仕事が面白いとか勉強になるとかそういうのは良いと思う。

何かの上流のプロジェクトであるとか、海外に銭湯をつくるみたいなことでもなんでも。

でも何かの上流のプロジェクトに参加してみて、なんかうさん臭くもあるんだよなと思ったのも事実。

それをつくってなにになるの?金持ちからお金を回収するプロジェクトをしてどうなるのか?

というわけで、知り合いがぽろっと言った「ブラジルに銭湯を作りたい」はとても魅力的だった。

別に銭湯じゃなくてもいい、サウナでもカフェでもなんでもいいんだが

でもなんか銭湯っていいよね。あったら自分が行きたいし。

まずは時間貸しのサウナからはじめてみようか?

 

・・・

そしてサウナの作り方(DIYでも作れるらしい)や経営(どのくらいで利益を回収できるのか?等)について調べ、

そもそもスタートアップってどういう人たちがいるんだろうと、日本のスタートアップ事業について調べ

空間設計やインテリアデザインにおけるスタートアップってなんだ?から最近の設計事務所に行きつき

そのお洒落さ具合に自分はまだまだ(というかもはや土俵が違う)と軽く落ち込み、

他にデザイン関係でどんなビジネスモデルがあるだろう?、生成AIについての記事を読み漁って今・・・となった。

この主軸から脱線していく感じが私らしいが、興味にまかせて調べていくというのはいろいろ面白い。

ネットの海を漁るといろんな人がいろいろ公開してくれていて楽しい。ニッチなことまで情報を手に入れられる。

情報を共有してくれる人というのはありがたい。

 

私は一貫して楽して生活に不自由しないお金が手に入ればいいのにと思う。別に金持ちになる必要はない。

貧乏旅行も慣れているし、たまに外食できればいい、洋服もユニクロでOK。

それで楽にお金が入る生活が保障された状態で、ようやくなんか自由なことをしたいなと思う。

このブログを書くなんかもその一つの活動だし、前述のサウナつくりとか、ネット徘徊とか。

「なんなら今もうできてるじゃん」と自分で突っ込んでしまったが、それでも焦りを感じるのは

「今この状態が永遠に続くかは不明」だからだ。今はOK,でも3年後大丈夫?みたいな。

まあ、あとは暇だからだ。仕事が落ち着いて暇になった。

本当は今日は少し離れた毒蛇研究所に出かけようと思ったのだが月曜で休館していた。

毒蛇研究所と今のネットの海を彷徨い考えを吐き出してるのとどちらの価値が高いんだろう?

考えが迷走してきたので次のテーマにうつりたい。

 

最近noteをよく読むが、私のよく読むコンテンツがネガティブな記事ばかりでうんざりしていることに今日気づいた。

というか、ネガティブな記事って読みたくなるよね。

具体的に言うと駐妻というキーワードなのだが、駐妻の悩みや不安、人間関係、そういったもののオンパレード。

果たして楽しく駐妻をしている人はいないのか?

・・・noteで駐在妻とキーワード検索してでてきた30個くらいの人気記事を対象に

ニュートラル・ネガティブ・ポジティブを正の字でつけていったら13:2:6という結果。

ニュートラルが大半だということが分かった。

ネガティブな記事ばかりに引き寄せられるのは私の意識のせいだということが判明。

さて一ついいねがたくさんついていたニュートラルそうな記事を読んでみた。

 

いろんな方々に助けられてあまりホームシックにもなることなく、いろいろ工夫しながら楽しく暮らしている、

みたいな内容で、印象に残ったのはアメリカの医療費の高さについて触れている部分だった。

正直目新しさがなかったのでいいねは押さなかった。

なぜこの記事がここまでいいねがついてるんだろう?とさえ思った(失礼)

 

ちょっと前に呼んだ、駐妻界隈で浮いてて大変みたいな方のネガティブな記事は、

めちゃくちゃ身を捧げて全身で書いたような文章で「そこまで卑下しなくても…笑」とは思いながら

全身全霊で絞り出している感じが面白かったのでいいねした(他からのいいねもたくさんついていた)

なんだろうな、ポジティブなものよりもネガティブなものの方がエネルギーがあるのかな。

ポジティブな記事で面白いのは

・相手のバックグラウンドがすごく、この人みたいになるにはどうすればいいだろうと思うもの

・その人の視点が面白く、自分が言語化できてなかった部分に気づかせてくれる

・ニッチな領域だが共感できる

・情報として発見がある

・・・といったところだろうか。

情報が目新しくて面白いか、その人に魅力や観点の面白さがないとポジティブな記事は難しいと思った。

一方ネガティブな記事は等身大でもモヤモヤなどを言語化していたら共感できる~という感じはある。

私にできることは、すごいバックグラウンドは特にないので、面白い視点を提供することとニッチな共感と情報提供である。

はたしてそれができるだろうか。