先日日本からブラジルに移民して、ゼロから会社を立ち上げ成功された70代の方の話を伺った。

ただ子供らに継ごうとしたときに上手くいかなかったそうで、今の人は恵まれてしまって向上心がない…というようなことを言った。

そこで

「ブラジルで日本人である私が暮らしやすいのは日系人が築きあげたもののおかげである、

ブラジルだけでなく今の日本が豊かなのは過去の人たちが築いた故であって、

向上心もなく現状維持で良いといったような若者は多いが、それは貯金を食いつぶしているようなものである。」

といった話をすると、まあそうなんですよ、息子たちも同じように考えててくれたらよいのに、というようなことを言っていた。

 

現状が豊かであるときに貯金を食いつぶすという感覚を持たない人はなぜなのか?

私がその考方を持つのは自分事として危機感を感じているからだと思う。

将来に対してこのまま現状維持すらできるのかという。

日本人であることは恵まれているというのが、まあネットの記事だったり海外にいっていろいろ格差を見たり等で見れるというのもあるし、

日常で置き換えても教育格差とか親の経済力とか、それありきで物事が決まっていく現象を国規模に広げたら考えやすく、

そして日本に生まれたのがラッキーで、それは先人が頑張ってくれたおかげである、というのは想像しやすい。

 

一番身近に私が貯金を食いつぶすことに危機感を抱いたのは

大学1年生でサークルに入り、若い女子ということだけでちやほやされ、

いつも先輩に飲みに誘ってもらって毎晩バイトか飲み会にあけくれ、ロクに勉強をしなかった時だ。

当然学内では落ちこぼれたので、1年の後半あたりから、「今若くて1年生でちやほやされるかもしれないが、年取ったら若さという価値は目減りするし後に何が残るのか?」と真剣に悩み始めた。若さ以外に特に誇れることもなかった。

多分この悩みは女性の多くがある程度経験したことあるのではないかとも思う。

(もちろん若さ以外のスキルなどを昔から着実に積み上げてきた人たちはそういう気持を持たないだろうが)

正直女性の若さというのは特権的なもので、親の財力とか、生まれつきの才能とかそういうのに並ぶ人生において何かとアドバンテージな要素だと思う。

人間は恵まれていたものを失うといった経験をどこかでするだろう。例えばお金でも、健康でも、美貌でも、能力でも、環境でも。

多分人生のある程度の段階で経験したりするのだろうが、その中でも女性の若さは結構早い段階で失われると思う。

でも書いてて、女性によっても若さという価値が失われることに危機感を持つ人持たない人いそうだなと思う。

なぜ物事が失われる前に危機感を持てるのか、という回答にはなりづらい。

 

前回その国の言語を学ばずに事業をしそれで経営がまわっている人の話を書いたが、それに違和感を感じたのは

その国に住むのに言語を学ぶことは、国に対する礼儀ではないか?という思想に相反したから、多少の反発精神をもって書いてみたからだと思う。それでうまくいくわけなくない?なぜ?→ああ、先人が貯金してくれてるからか。

礼儀とはなんだろうな?それもすごくおかしな考え方で、礼儀というか人に対する尊重がなければ社会で生きていくのは不可能じゃない?生きる上での対価では?という方が正しい。じゃあその対価を払わないのになぜ社会で生きれるのか?それは日本というブランドがあるから。

礼儀とは本来利己的な人間が社会の中で生きていく上での原則というか、守らないと生きてはいけないルールであって、

何もなしに宗教みたいに「礼儀正しいことが大事である」みたいなふうには私は信じられない。

なぜなら、そうやって信じ込むと礼儀正しくない人がいると許せなくなるからだ。礼儀正しくないことも相手の自由だからだ。

でも、どちらかというと私は礼儀信者だな。礼儀正しくない人のことを嫌いだし。

つまりは自分がされたら嫌なことは相手にしない、だから礼儀正しくする、というのが正しい。

 

ところで物事が失われる前に危機感を持てることと、今あるベネフィットは誰がつくったものか?と考えられることは割と個人の能力・もしくはスキルではないかと思う。

ベネフィットを享受するだけで、自分で生み出せないのはそれが枯渇した時にどうしようもない。

まあそれが枯渇しないと考えられるから能天気にできるんだろうが。

例えば私の世代なんて国の豊かさなんて生まれた時から当たり前にあるのだから、それが枯渇するなんて考える方がおかしいかもしれない。

自分の中になんかどうも状況というのはころっと悪く変わってしまうんじゃないかという恐れがある。

それは例えば、昔読んだ「夜と霧」みたいに普通に暮らしていたユダヤ人がある日突然強制収容所にいれられるみたいな。

突然戦争がおこってどうしようもない状態になるとか、大地震が起きるとかでも。

大地震は仕方ない。でも根本人間というのは信用できなくて、戦争とか強制収容所みたいな人災は自分の手の届かないところで起こりうるよね、みたいな。

そんな大きくないことでも、例えば日常だったら会社勤めをしてても鬱病になるくらい仕事や人間関係に追い込まれるとか、そういうのは事故みたいに自然災害的に発生しそうだよねといった。

まあそういう時に「逃げ道がある」とか「自分で何かを生み出せる」とか「助けを求められる人がいる」とかそういうのがあるかないかで生死を分けると思うので、ネガティブになりすぎない程度にコツコツ自力でなにかできないとなあ、という気持ちになる。

同年代の人はこんなこと考えないだろう、というか子育てとかに必死でそれどころじゃない。

こんなことを考える余裕があるだけ恵まれている。

 

ということで話は戻ってひたすらガムシャラに働いて異国の地で会社を築いた知り合いの方は

そんな客観的に物事を見れる状況でもなくただただ夢中だったということで、2つを両立するというのは難しいのだなと思う。

余裕があるから客観的に物事を考えられる、でも行動にうつすと余裕がなくなる。

どんどん行動できる人は、だんだん余裕がなくなってマクロな目では見れなくなるかもしれない、

もしくはどこかのポジションに所属すればそこからしか物事を見れなくなるかもしれない。

動けば身動きがとりずらくなるし、動かなければ思想は自由でも特に何も変えられない。

だから方法としては2つあって

1つは思考する人と行動する人とで役割をわけること(会社のような)

2つは思考と行動をちょうど良いバランスでおこなうこと(走りながら考える)

 

あと、がむしゃらに動ける人は強いということについて

追い込まれる状況にいると人間は頑張らざるを得ないので、

追い込まれる状況にいるというのもある意味恵まれたことだと思った。

例えば生まれつき金持ちで家が不自由ないですという人は、追い込まれないので頑張る気力がないだろう。だからせいぜい現状維持しようというくらい。そこで頑張れる人はただただ強欲だと思う。

でも貧しければそこから這い上がるしかない、というか伸び代しかない。

追い込まれるとやはり人間は成長するので、なんだか恵まれた時代は自分から追い込まれにいかないと成長機会もないのでは、という気持になる。そういう意味で海外留学とかは良いのかもしれない。