画像生成AI、動画生成AI界隈を見ていると
そのうち一人で映画をつくれる時代も来るんだろうなと思う。
コンテンツ作成が民主化する未来はどうなるんだろう?
今でも既に、例えばブログやnoteでプロじゃなかった人が読み物を書いて収益をあげることができる。
例えば私はnoteをよく読むけど、そのせいで(おかげで?)紙の本を読む時間が減ってしまった。
なぜなら紙よりスマホの方が手元に置きやすいし楽だからだ。
紙の本を読むには、本屋やamazonで書籍を吟味して選んで、手元になければいけない。プロセスが多い。
その点スマホでnoteを読むなら常に手元にあってアルゴリズムで自分が興味ありそうなものを提案してくれる。
ただ民主化したコンテンツを摂取することは良いのだろうか?
だらだらSNSを見ている時にも思うが、正直無駄な情報の嵐ともいえる。
もちろんnoteの一つ一つは作者が丹精こめて作ったもので価値がないなんて言うのも失礼だが、
同じ時間で良質な本を読むのと、noteを読むのとどちらが有益だろう?
noteやSNSは良い情報を手に入れられることもあるけど、どちらかというと質の良くない情報80~90%くらいなのでは。
あと、あくまで娯楽として自分の中で線引きしていたとしても、接種する情報が自分を作り上げる。
文学作品を読むのと、SNSを読むのとで、自分の中での語彙の種類も変わってくるだろうし
ショート動画とかで得た情報はとても断片的で、本を読んで体系的に得る知識とまた違ってくるだろう。
なんだか流されて娯楽として質のイマイチなコンテンツを摂取すると、それに自分も影響されてくるのだと思う。
話は戻って、将来映画製作とかも一人でおこなえて、どんどんコンテンツがあふれる。
そこからスター作品が生まれることもあれば、微妙なコンテンツにさらされる機会も増える。
最近生きてて思うのが、必要でない刺激が多すぎるということだ。
人間関係もそう、街中の広告もそう。これまでは微妙な人間関係も、センスの悪い街中の広告も、「我慢せざるをえないもの」、あるいは前向きに考えても「自分の嫌い」を知って「何が嫌いかで何が不要か」を知るための勉強だと思っていたが
これだけ何かを選べる世界、嫌いや不快をこれ以上接種する必要はなく、好きとか有益なものだけ選んでいければいい。
消費側が製作側に変わる、でも消費側は溢れるコンテンツにうんざりする、製作するのは楽しいけれど。
消費側はクオリティの高い製作物を求めるが、製作する側はレベルが低くても自分でつくれれば楽しい。(ただどんどんハードルが高くなり、周りのレベル高い人たちに圧倒される…)
自己表現がしやすい世界なんだろう。良いものも悪いものも表出しやすい時代。
また大衆に人気のものがいいねのアルゴリズムでどんどん評価を増やして価値が独り歩きしていく。
必ずしもいいねの多いものが良いとは限らない。人からの支持を得やすい、というだけの話である。
時代の流れと空気を読んで、人気の出るコンテンツをつくることが助長される時代、
精神自体も他人と境界線がなくなりそうな時代、週刊誌がネタを拾っていくように消費に間に合わせることの繰り返し。
良質なプラットフォームみたいな、選ぶ視点が大事になってくるような気がする。
おしゃれなセレクトショップみたいに、このオーナーが選ぶものはセンスが良い、みたいな。
そしてものづくりの楽しさは、周りを気にしないことだと思う。こうやったら面白そうをとことん追求していくこと。
そうやって自分の中での指針を決めておかないと圧倒されそうなくらいコンテンツが溢れすぎているのだ。