堀田様の出立の準備がうちにも、上屋敷に出仕すれば吾でさえ医者溜まりで礼文島沖で商船(伊達林右衛門所有の(のり)(ゆき)(まる))が焼かれた、利尻島に停泊中の官船(ばん)(しゅん)(まる)に商船、(せい)(りゅう)(まる)が焼かれた、上陸して会所も蔵も番屋もアイヌ小屋も襲撃され焼き払われたとの情報を耳にした。

 今や、御上(幕府)の中は、(いくさ)の無い世が続いていたゆえ右往左往する騒ぎに在るまいか。北国(ほっこく)の防衛の重要性を再認識しても御座ろう。

 

 六月二十一日。(文化四年。一八〇七年七月二十六日)。蝦夷地防衛の指揮官に任命された堀田様は、大目付、中川(なかがわ)飛騨(ひだの)(かみ)(ただ)(てる)様等少しばかりのお供と共に江戸をお発ちになった。

 仙台で蝦夷地入りの体制を整えるのだと笑顔に有ったが、吾は源四郎(工藤源四郎。故人・工藤平助の次男)の代わりに玄幹(大槻玄幹、大槻玄沢の長男、二十三歳)を随行させたことが気になって仕方がない。蝦夷は吾とて一度も踏み入った事が無い土地故に、玄幹にあれこれ忠告することとて出来無かった。

 堀田様は、家族が源四郎をこの江戸に残せと言うでの、その様にしたと語った。流行(はや)りの夏風邪をこじらせている倅殿(堀田正衡(まさひら)、十二歳)を心配しての決断だった。

 代わりが務まるかと言えば心もとないが、玄幹の随行を吾からお願いした。以外にも、あっさりと頷きもして呉れた侯に感謝だ。玄幹には、重々、堀田様の健康維持を第一に考えよとあれこれ薬を持参させた。

 どのくらいの期間、蝦夷に居られるようになるのかとお聞きすれば、行って見なければ分からんとのお話だ。最もな事だ。聞いた己が恥ずかしくもある。

 また、(蝦夷に)行っている間、御屋形様(伊達周宗、十二歳)の後見人を越中侯(松平定信、白河侯)にお頼みしたとの事には驚いた。寛政の世からの侯(堀田正敦)と越中侯との太い絆が今でも続くと再認識させるものだ。

(松平定信は寛政元年、堀田正敦を徳川幕府の大番頭の職に抜擢。その翌二年、更に若年寄りに昇格させた。正敦は定信の「寛政の改革」の一翼を担っている)

 また、臨時の通訳官に仕立て津太夫と左平を連れて行くことにしたとのお話にも驚いた。だが、その訳をお聞きして前に申し上げた己の結論に恥じ入った。

 大黒屋(大黒屋光太夫)が事の有った時(帰国した時)から凡そ十年も経っている、(いえ)(なり)(こう)(徳川幕府十一代将軍、徳川家斉)が大黒屋等を引見した時(寛政四年)には、オロシヤの軍事力に付いて聞く事もあまり無かった。されど十年経って今回其方に聞くに、カナスダと言う港に集結している何艘もの軍船を見た、街のあちこちに大砲が設置されていたと語ったは此度(こたび)()()であろう、オロシヤの今の軍事力を知るに、やはり仙台が()()に聞くべきと判断したとの事だった。

 堀田様も倅も今は如何して居ようか。江戸の街も秋を思わせる涼しい風が吹くようにもなった。蝦夷地はもっと寒かろう。

(堀田正敦は仙台にて奉行の職にあった中村(なかむら)日向守景(ひゅうがのかみかげ)(さだ)等凡そ六百人の藩士と学者等を随行させて津軽海峡を渡り、文化四年八月二日(一八〇七年九月三日)に松前の地に至っている。その日のうちに東蝦夷地調査隊と西蝦夷地調査隊を編成し見回りの命を発した。

 仙台を何班かに分かれて出立したらしく、堀田正敦が仙台の漂流民、津太夫と左平に初めて会ったのは青森県下北半島の野辺地(のへじ)と記録されている。

 また、松前から箱館(函館)に行き、その箱館で津太夫と左平を南部藩の漂流民に引き合わせている。双方からの聞き取り等でカムチャッカ半島に駐留するオロシヤ軍の把握と情勢の分析を行っている。

 なお南部藩の漂流民とは、享和三年九月に下北半島も陸奥(むつ)(わん)に面している村(南部藩脇之沢村)から出帆し、江戸に向かっていた(けい)(しょう)(まる)(乗組員十三人)の遭難者である。

 慶(けい)(しょう)(まる)は遭難して九十九里浜沖(千葉県沖)から北国まで流されていた。生存者六人が着いた所は千島列島の北東部に位置する無人の(ぱら)(むしる)(とう)だった。

 近くもあった占守(しゅむしゅ)(とう)に小舟で渡り、ある日にその沖合を通る船を見つけて合図を送るとアイヌ人の船だった。同伴してアイヌ人の居住する土地に行ったもののそこはオロシヤの領地であった。

 その後に紆余曲折(うよきょくせつ)があって、南部漂流民六人は文化元年九月中旬、カムチャッカ半島のペテロパウロフスクに到着する。そこで知り合ったのが、あのレザノフと共に世界一周を体験してきた仙台漂流民、若宮丸の(すい)()だった善六である。親日使節、レザノフが乗るナデジダ号が日本に向かった直後の事であった。

 善六が、イルクーツク行きやオロシヤに残るよう説いても六人は耳を貸さなかった。オロシヤ政府の役人や商人の間で日露国交樹立が噂され、そうなれば自分達は日本に帰れると期待を抱くのは当然だった。

 だが、文化二年五月。長崎からペテロパウロフスク(カムチャッカ半島の行政中心地)に帰って来たレザノフ達から日本との通商交渉決裂を知る。その情報に、六人に対して優しかった周りのオロシヤ人達の態度が変わった。風当たりが厳しいものになった。

 文化二年六月中旬。六人は漁に出ると偽ってペテロパウロフスクを脱出した。その成功した裏にはあの仙台漂流民、善六の手助けがあった。

 その後六人は逃げに逃げ、千島列島の島々を転々とする。知り合ったアイヌ人の助けも有って文化三年六月末、やっとに択捉(えとろふ)(とう)の北端に上陸することが出来た。

 そこに在った幕府の番所((しべ)(とろ)番所)の取り調べの後、転送され、紗那(しゃな)の会所で南部藩に身柄を保護された。南部藩士の付き添いに守られて彼ら六人が箱館(函館)に到着したのは文化四年四月と記録されている)