十 夜話
「ゴメン。やっと解放されたね、
親父も興奮して(い)た。
酒が入った所為だけでは無いよ。息子が将来有望な二人を連れて来たのだ。
それで饒舌になったん(の)だ。
許して呉れよ」
「ぜーん、全。気にすること無いよ。
千田も俺も、口にした酒肴以上に満足、感激しているよ。
小野寺の小さい頃の話になったのには驚いたけどね。
良い話だったよ」
「否、それよ。本人の俺でさえ全く覚えていないんだ」
「でも、聞いていて、
小野寺が大槻玄沢について調べてみようとした気が分かった気がする。
小学校に上がる前の子が、あの駅前の銅像を見ながら医者になると宣言したなんて、聞いた俺だって驚いたよ。
銅像を前に、小父さんの説明が上手かったんだろうけどね」
「俺も、そう思うね」
千田が相槌を打った。
「将来、どの様な職に就こうが、息子が世間様のために働く人間になって欲しい。
そんな思いが有って、三賢人(像)の前で話して聞かせた事だったんだと思うよ。
それが、本当に医者を目指すなんて。
小父さん、嬉しくて仕方なかったみたいだったね」
「俺も、聞いていて佐々木と同じことを思った」
「和菓子屋の倅が、医者を目指すなんて。
親も姉弟も親類も驚きだった」
「でも、言ってたじゃないか。
中学、高校生の時にも医者になります。家業は継ぎません。
お金が(大部に)必要になるので迷惑を掛けますけど宜しくお願いしますって宣言されたって。
それを俺と千田に語って聞かせるにも、小父さんの顔は笑っていたよ。
聞いて良いかな。知っていたら教えて呉れ。
かんざん亭で、前野良沢の話が有ったよね。
解体新書作成の中心人物として参加していながら、その書に名を残さなかったと言ったよね。
何故、(名を)出さなかったの?」
佐々木の鋭い質問だ。
「俺も、それが気に成った所だったね。それで、調べもしたよ。
解体新書が世に出された時って、西洋の絵や文字を紹介しただけで牢にぶち込まれるおそれのある鎖国時代だった。
(長崎の)出島に来ていたオランダ人から聞き取り、
「紅毛談」という本を纏め、発刊したのが本草家の後藤梨春だ。
その本に横文字が含まれているというだけで梨春は御上に捕まった。
投獄の憂き目にあったんだ。
解体新書を世に公表する少し前の事だったから玄白も良沢等もその事を知っていた。
杉田玄白に係る学者、諸先生方の本を読んで諸説が有ると分かったよ。大きくは二つだ。
前野良沢は、解体新書を世に出せば自分も牢にぶち込まれるのではと、それを恐れて発刊直前に逃げ出したという説が一つだ。
もう一つは、解体新書の基に成った本、ターヘル・アナトミアの翻訳がまだ未熟。功名を得んがための発刊には賛成出来ない、参加していること自体を消してくれ、
と前野良沢が言ったとの説だ。
「へー、・・・、で、大槻玄沢はどっち?」
「二人に身近に仕えた玄沢だけど、玄沢がはっきりと言っているのは何も無い。
だけど、玄白自身が後になって玄沢に解体新書の改訂、翻訳を頼んだことを見れば、自ずと答えが出ているような気がする」
「玄沢も小野寺も、もう一つの説の方?」
「前野良沢は長崎に遊学していた。
それ以来、玄白よりも良沢と親しくなっていたのは吉雄耕牛だ。
その耕牛が、解体新書の序文に前野良沢の名を出しているんだ。
翻訳者一覧に名が無くても、それで良沢が翻訳に参加していたと世間に知られたんだ。
御上の捕縛等を恐れていたなら、序文に態々友人である前野良沢の名を出すと思う?
御上に友人を売る事にも成るだろ。耕牛はそのような人物ではない。
また一緒に翻訳作業に当たっていた中川淳庵や桂川甫周等が、良沢を蘭語翻訳の第一人者と認めていたんだ。
甫周に至っては、翻訳を急げ、急げ。でないと俺は死んで草葉の陰から出来た翻訳書を見ることになる。
そう語る先生、杉田玄白の言葉を耳にして、草葉の陰さん、草葉の陰さんと玄白に綽名を付けて、陰でそう呼んでも居たんだ。
玄沢は長崎遊学の途中に、遠回りをしてまで太宰府天満宮に寄りもしている。その理由が、碌に蘭書の翻訳も出来ずして功名に走り、翻訳が事を口にすることあれば神よ吾を罰せよと願を掛けたという。
前野良沢と同様の逸話が残されているんだよ。
玄沢は願掛けをする以前に、良沢に聞いても居た事だったのではと思う。
翻訳専一とまで決心していた玄沢だ。良沢先生の思いを吾が継ぐ。そういう心が有ったのではないかと思う。
重訂改訂新書の完成に凡そ十年もかけているんだ。功名心だけで(翻訳)出来る物でも、費やした日月でも無いと思う。
かといって、俺は杉田玄白の生き様にも感服しているんだ。
玄白の人生を学者先生方の書いた物で探ると、医学医術の習得に真摯であり解体新書で一躍名を成した後も奢ること無く、己の知る限りの西洋医術を天真楼と言う塾で惜しげも無く来る人、意欲のある人に教えているんだ。
解体新書の発刊に当たって玄白の凄い事は、まずは鎖国の世の御上の姿勢を伺うために今で言うパンフレット、解体新書要約版(解体約図)を五枚に造って、それを先に世に出しているんだ(安永二年、一七七三年正月発行。江戸、須原屋市兵衛版)。
腑分け、今で言う解剖だね。それが許されていない時代に、骸骨、手や足の人骨、人体の中に有る臓器それぞれの役割等を絵付きで周知する。
そのパンフレットを以て西洋医学の教えの素晴らしさを世に披露しながら、その時の御上の反応を確かめても居るんだ。
その判断力と決断力,大したものだと思うよ。
後々には己の塾を超え、幕府の学問所の有り様にまでも関わって行くんだ。
日本史で習ったと思うけど儒学の林大学、その大学以来の林家の私塾から幕府の管理する所となった湯島の学問所。
その学問所、昌平黌の学長、教授に、身分にとらわれず全国から人材を登用するよう進言するまでになったんだ。
そればかりか娘婿、伯元に家督を譲り、原点に返って貧富に関係なく診療に当たっているんだ。七十五(歳)を過ぎた玄白が、江戸の場末の長屋までも歩いて診療に出かけているんだよ、
ある日に、弟子の一人が、功成り名を成した先生が長屋に診療に出かけるのは恥ずかしい、(長屋に行くのを)御止め下さいと言ったんだ。
そしたら、玄白は、医者が恥ずかしいのは、聞かれて答えられない己の医療の未熟さを知った時で、患者の貧富にあらずと言っているんだ。
医者の心得として普遍的に、現代にも通じる良い話だよ」
佐々木も千田も、大きく頷いた。
付記:今日から本格的に「再開」です。昨日までの飛び飛びの再開文にさえも多くの方から「良いね」ポイントを頂きました。真に有難う御座いました。
引き続き、今後とも宜しくお願い致します。
今は、最終章「病の床から」を執筆しています。自分の文献調査と遅筆のために、またまたお休みをいただくことがあるかもしれません。そうならない様、今後とも努力しますのでご容赦下さい。