二百メートルも来たか、天工(てんぐ)橋(ばし)が見えてきた。お目当ての橋だ。先程、駐車場探しにこの橋の手前で戻りもした。

「ここが連れて来たかった橋だ。

 厳美渓が大槻玄沢に関係が有るのって聞かれて「有る」と言ったのは、この厳美渓谷の呼び名であり、この橋にまつわる歴史だ。

 今の橋が、何代目の天工橋になるのか分からないけどね、

 今に、吊り橋でもなければ、木造の橋でもないのが残念だよ」

 幅が六メートル、長さ五十メートルはあるだろう。車が頻繁に通るが、車道と歩道が区分されているのが良い。

「大槻玄沢は、故郷、一関に戻ったのは四度記録されている。

 江戸遊学を終え、帰郷を余儀なくされた年であり、結婚もした年、天明二年(一七八二年)と、

 父の危篤と病没。家督相続のために帰京せざるを得なかった二年後の天明四年(一七八四年)。

 そして、単身赴任を解消するため、母、妻子、弟を呼び寄せるために帰郷した天明七年(一七八七年)の三度目と、

 そうそう、天明七年は大飢饉に見舞われ民衆が米屋を襲うなど、江戸でも地方でも打ち壊しの有った年だ、松平定信が老中に就任し、寛政の改革を始めた年だよ。

 それから実に二五、六年振り、五五、六(歳)になる玄沢が世にも有名な蘭学者になり、功なり名を成し遂げて故郷に錦を飾るが如く帰郷した文化九年(一八一二年)だ」

 語りながら松の木の側(そば)に建つ石碑に千田と佐々木を案内した。人は多く居るのに、石碑を見る観光客は誰も居ない。背の低い方の石碑に「厳美渓橋碑について」と有る。その傍に高さ三、四メートルも有る石碑だ。

「高いこの石碑は、復元された物だ。

 元の石碑はこの辺りの川沿いの岩盤の上に有ったらしいよ。

 昭和二二年(一九四七年)の九月に、キャサリン台風とか言う台風が襲って磐井川がもの凄く増水した。

 大雨は山津波を引き起こし、土石や流木がこの辺りに怒涛のように押し寄せて来た。元々あった石碑を破壊、流してしまったらしいね。

 幸いに(一関市)博物館に、元の石碑の碑文の拓本が残されているんだ。

 明日行って、見れると思うけどね」

「平成十年か・・・。

 この復元碑も、俺達が生まれる前の物になるね」

 『厳美渓橋碑について』の方の最後の行を指さして千田だ。

「石碑と大槻玄沢の関係は?」

 佐々木の質問だ。

「それを言いたかったんだ。それでここに案内したんだ。

 この厳美渓は、元々、昔から五串渓(いつくしけい)と呼ばれていたんだ。

 玄沢が山ノ目の中里村や一関市内で育った江戸時代にもそうだった。

 それが何で今の厳(げん)美渓(びけい)になったのか。厳美渓と呼ばれるようになったのか。

そこに大槻玄沢の存在が有るんだ。

 とすればここにある『厳美渓橋碑について』の周知する表現、中身も、書き方も変わってくると思う。

 駅前の大槻三賢人の銅像だけでなく、厳美渓の名称は大槻玄沢によって名付けられ今日に至っていると、この渓谷を紹介するに書かれて然(しか)るべきだよ。

 大槻玄沢の次男、平次郎(六次郎とも言う。元服して平次郎と名を改めた)、後の大槻磐渓だけど、彼は十八歳(文政元年、一八一八年)の春に初めて一関を訪れた。

 その時の彼の旅日記(戊寅遊記(つちのえとらゆうき))が今に残されている。

 そこに、今の厳美渓を言うに数字の五(・)と串刺しの串(・)、渓谷の渓(・)の字から成る五串渓(いつくしけい)が出てくる。

 江戸から平次郎に同伴したのは、玄沢の芝蘭堂に学ぶ佐々木中沢(ちゅうたく)だ。

 中沢はその前の年、(文化十四年、一八一七年)に一関藩の藩医に成り、大槻宗家の当主、七代目大肝入り大槻(おおつき)丈作(じょうさく)(大槻清(きよ)臣(おみ)、大槻平泉の兄)の長女恵(え)和子(わこ)と結婚していた。

(大)肝入り丈作は玄沢が田舎に在(あ)る十三歳の頃。まだ赤ん坊だった。
 農業にも川遊びにも、また、秋の山菜取りや冬の狩猟(かり)にも何かと玄沢の面倒を見て呉れたのは丈作のお父さん、専左衛門(大槻清雄、大槻家六代目大肝入り)さんだ。

 故郷を引き払った玄沢にとって大槻宗家は今や故郷そのものに思えるものだった。

 そのことも有ってだろう、小さい頃から身体のひ弱だった平次郎の初めての長旅に行先が一関、同伴者に中沢、玄沢にとっては打って付けだった」

「肝入りって・・・、地域のまとめ役だっけ?」

 千田の質問だ。

「そう。江戸時代、大肝入りは村の自治組織の頂点に立つ存在だった。

 領主からの命令を村人に伝達したり、年貢の徴収や村の治安維持などの役割を担っていたんだ」

「庄屋様とか名主様とも呼ばれて居たと教えて貰ったな」

「うん、そう。平次郎と中沢(ちゅうたく)の二人は、途中、仙台にも寄った。

 医学部の独立、講堂の整備など養賢堂の学頭にもなって活躍している大槻(おおつき)平泉(へいせん)に四、五日世話して貰っている。

 前にも、平泉は丈作の弟だって話したよね」

(二人は、文政元年五月六日に江戸を発ち、仙台に十三日から十八日まで滞在。二十一日に一関中里村の大槻宗家に到着している)

「それで、何で厳(げん)美渓(びけい)が大槻玄沢なの?」

 今度は、佐々木(の質問)だ。

「うん。屋代(やしろ)弘(ひろ)賢(かた)と言う人物が居る。江戸幕府の筆頭右筆(ゆうひつ)格に在(あ)った人物だ。

 その屋代が大槻玄沢宛てに出した書簡が、早稲田大学図書館に残されているんだ。

 厳(・)美(・)碑(・)の揮毫(きごう)がために紋(もん)絹(おり)の生地をお送り下さるはご厚意浅からず、忝(かたじけな)くも収めさせて頂くとお礼の手紙を出し、

 その後の書簡で天工橋碑の清書を終えて(文政二年十月二四日)、それを関係者に渡したと伝えているんだ。

(「為厳美碑書丹(しょたん)潤筆紋絹一疋贈被下扨々(さてさて)御厚意不浅忝収納候・・・十月二十四日」。

「天工橋碑浄写終功候間二十四日昼時頃御人可被下候・・・十一月二十一日」。

「書丹」とは、石碑に文字を刻す前に石碑に下書きをすることを指す書道用語)

 つまり、石碑の揮毫を頼んだ時には五と串でなる「イツクシ」のハズが、屋代の返書では、「厳(いわお)」と「美(び)」に変わっているんだ。

 渓谷の表示を、屋代が勝手に五串(ごくし)から厳(げん)美(び)に変える事などあり得ないよね。

「厳(げん)美(び)」を以て「イツクシ」と読み、それで揮毫をして呉れと、玄沢が依頼していたことになるんだ。

 厳美渓と言う名称の謂れが大槻玄沢に有ると、俺が言う根拠だよ」

「成程。そう言えるね。

 清書した、それを関係者に渡した、と今聞いたけど、碑文の内容もヤシロ・ヒロカタが考えた物なの?」

「いや、碑文そのものは松崎慊堂(まつざきこうどう)と言う儒学者が書いているんだ。

 達筆であり、能書家である屋代が、その清書を頼まれたと言う事だね」

 「ちょっと待ってよ。清書を頼まれたヤシロ何とかは兎も角、

 マツザキ・コウドウは実際に厳美渓を観ているの?

  観ていなければ、碑文に有るようなことを書けないと思うけど・・・」

 口を挟んだ千田の質問は最もだ。

「うん。松崎は実際に厳美渓を見ているんだ。

 大槻宗家に泊まってもいるんだ。

 松崎と平泉とは、共に昌平黌(江戸、湯島の学問所)に学ぶ学友だった。

 松崎は儒学を学び、漢学にも長(た)けていた。昌平黌の学頭、林述齋の信頼も厚くて、朝鮮通信使の応接を学頭に代わって行うほどの人物だった。

 当時、玄沢は江戸にも有名な蘭学者だからね。松崎は、学友、平泉を通じて玄沢の事を知りもしていたろうし、紹介を受けていたと思う。

 松崎は大槻宗家に泊まって厳美渓を見るだけでなく、天工橋設置に係る謂(いわ)れ、

誰が発案で、何故あの高いところに吊り橋を作ったのか、

 誰の協力が有ったのか、何年に造られた物なのか。

 苦労話等までも(宗家、大槻丈作(じょうさく)、清(きよ)臣(おみ)。大槻家七代目大肝入り)聞いていたと思うよ。

 松崎がそもそも大槻家に泊まることになったのは、玄沢から松崎に話が有っての事だと思う。学友平泉は、当時、仙台に在ったからね、

 何かの機会に、玄沢は松崎が東北地方を旅行すると聞きもしたのだと思う。

 江戸時代だ、旅行とは言わないか。旅に出ると耳にしたのだと思うよ。

 それで、仙台、松島に行くのなら一関にも足を伸ばされよと言っていると思うんだ。

 (松尾)芭蕉の「奥の細道」のことも、厳美渓の渓谷美も話して居ると思う。

 松崎は息子(嫡子、松崎(まつざき)泰(たい)輔(すけ))を同伴して奥州白河、今の福島県白河や、宮城(県)の仙台、松島などの名所旧関を巡る旅に出た。

 当然、学友である大槻平泉と仙台で旧交を温めて居る。

 そこでも厳美渓の事は話に出たと思う」

 石碑を見ながら納得したような二人だったが、佐々木の鋭い質問が追って来た。

「松崎が厳美渓を実際に見て書いたのは分かった。

(大槻宗家に)泊まりもして、聞きもしたことを基に碑文を考えたであろうと、そこまでは分った。

 玄沢と松崎との間も、今、小野寺に聞いた事から想像がつく。

 だけど、それが幕府の右筆役に有るヤシロ・ヒロカタの手に渡るには、玄沢と松崎との間の外(ほか)に世話をした人、幕府の中に世話をした人物が居たと思うんだけど・・・」

 さすがに佐々木だ。外科であろうと内科であろうと、目にする患者の症状、聞いて知る症状等から病の原因を探る。それが患者のための治療、治癒を図る第一歩だ。

「そうだよ。(佐々木の)想像通りだ。

 出来上がった松崎の碑文の原書から、玄沢とヤシロとの間を取り持ったのは幕府若年寄の職にあった堀田(ほった)正敦(まさあつ)だよ。

 それどころか玄沢と松崎を目の前にして、堀田の方から石碑の題字を白河侯(松平定信)に書いてもらおうとの提案があったと思う。

 玄沢や松崎が、石碑の題字を元の老中首座、松平定信に書いてもらおうなどと考えるハズも、言えるハズもないからね」

「えっ。この独特な石碑の題字は松平定信(筆)なの?」

 再現された石碑を見上げ、驚き顔の千田だ。

「そうなんだよ。

 玄沢と松崎は堀田正敦に一緒に会っていると思う。

 目の前に持参した撰文を広げて、その題字を書いてくれるよう堀田(正敦)に依頼したと思うんだ。

 それで、碑文の浄書は右筆方に頼もう、題字は自分よりも書に堪能、達筆な白河侯に書いて貰おうと、堀田自身から提案したんだと思う。

 俺達は、松平定信は寛政の改革をした人、推進した政策は何か、それを日本史で習ったろ。だけど、定信を支えた政策のブレーンに誰が居たのか、そこまでは習っていない。

 あくまでも、大学受験の勉強のための日本史だったからね。

 堀田は寛政の改革推進の時の定信のブレーンの一人だったんだよ。

(幕府の)若年寄の要職に在りながら、一方では仙台藩の幼い藩主の後見人だったんだ。

 仙台藩の藩医にして、江戸にも日本国中にも知られた蘭学者であり翻訳者であり、世界の情勢に詳しい玄沢は。当時、堀田と既に親しい間柄だったんだ。

 堀田は文化四年(一八〇七年)頃に蝦夷地に出兵している。ロシヤの南下を阻止するために仙台藩の藩士を率いての事だった。

 その際にも、玄沢に蝦夷地での対処方法、政策を聞いてもいる。

二人の間には信頼関係が構築されていたんだ。

 玄沢から碑文の題字を頼めるほどに、二人は親しい間柄だったと言う事だね」

「それで、松平定信まで行ったんだ」

 千田の言うに、俺は思わず首を縦に頷いた。

「定信と堀田との仲は相当良かったんだと思うね。

 堀田は、異国に関心を持つ定信に、玄沢が長崎から連れて来もした和蘭語の達人、石井庄助(馬田清吉)を紹介しているんだ。定信は石井を家臣に抱えた。

 そんな仲だから、堀田が定信に題字の筆耕を頼むのは無理な事ではなかった。

 定信は松崎の碑文を読んで「厳美渓之記」と決めたろう。それを縦に書くか横にするかを思案しても、五串渓か厳美渓かを思案する立場になかった。

 話が持ち込まれたときには既に厳美渓と有ったと思う。そう考えるのが自然だろう」

 二人は、揃って頷いた、見れば、腕時計は(午後)六時に近い。

「帰ろう。見るべき所、俺が言いたかった事は言えたからね」

「さっきまで観光客が多く居た、あの東屋まで行って見よう。

 それで、帰ろう」

 佐々木の提案に従った。

「厳美渓橋碑について」の石碑も、復元された方の大きな石碑もスマホに収めた二人だ。

 春の夕暮れの厳美渓を見るのは初めてだ。陽が長くなったとはいえこの時期、陽が陰(かげ)れば途端に冷え込んで来る。

 見れば、川辺の岩の上に遊ぶ観光客が大分減っている。足元を確かめながら進んだ。右左に座る場所のある東屋は以前と変わりないが、支えている柱を見れば古くなったのは確かだ。渓谷の巌(いわお)と一層緑濃くなった流れを、上流から下流まで改めて眺めた。

 ナビの示す通りに天工橋を渡って駐車場に戻るに、右側にサハラガラスパークの大きな看板が目に付いた。無料駐車場有りの表示に今の時刻なら空いているかもと思いもした。

 営業時間が終わったのだろう、建物全体の灯りが落ちていた。世界の硝子工芸品、十万点の表示が佐々木の気を引いたらしい。今度厳美渓に来たらここも覗いてみるかと言った。千田が、硝子の小道のトンネルを通って店内だ、中は見る価値大いにありだ、大小様々な工芸品が並ぶけど俺はガラス細工のゴジラ、ティラノザウルス等の怪獣に興味が引かれたと語った。

 小学生の頃に来た思い出なのだろう。停めた市営駐車場が見えてきた。