[エッセイ・5]:9月13日、日曜日。一足早く、秋のお彼岸を意識しながら義父の七回忌のお墓参りに行ってきました。お坊さんと義弟夫妻との話でこの日に成ったと妻から話を聞いて、僅か三日目のことでした。
墓は、生前に義父が購入した住宅のある千葉県佐倉市にあります。所沢から高速を利用しても片道凡そ1時間45分かかりました。
妻や二女等とただ座って居るだけですけど、お尻が痛くなる、休憩したい、トイレに行きたいと自分の思いのままにならない事を思っては、75歳で返上した運転免許証を少しばかり悔やみもしました。
生きていれば98歳になるかと思いながら、故人の墓に両手を合わせて来ました。小生同様、東京に出稼ぎに来た人、故郷新潟県柏崎市に戻れなかった人との思いが何故か自分と重なりました。自分もまた、都会に憧れつつも出稼ぎに来た人、故郷岩手県に戻ることを諦めた人になるのでしょうか。
義父の眠る所は7,8年前新たに開発された墓苑です。何処を見てもマス目に整備された指定の箇所に新しく造られた墓石が並びます。水汲み場も行き交う人の通る所も感心するほどに整備されています。掃除も行き届いています。
他人様のお墓を見て歩くのは失礼な事かと思いながらも、1センチと隙間の無い、整然と並ぶ墓所に好奇心から歩き回って見たくなったのも事実です。
驚きました。大概の墓石には〇〇家之墓、〇〇家先祖累代之墓、〇〇家と有るのですが、五つに一つぐらいの割合で、墓石には「ありがとう」「感謝」「和」「偲ぶ」「憩う」「やすらぎ」等々が見られるのです。
立ち止まって考えても見ることになったのは、「ありがとう」とある墓石です。最初は、墓参に来た人の故人に対する感謝の気持ちとばかり思って居たのですが、同じ幾つかを見ているうちに、故人が会いに来てくれて、お参りに来てくれて、ありがとうと言っているようにも思えてきたのです。
そう思うと、「和」「偲ぶ」「憩う」「やすらぎ」は、故人のためなのか、墓参に来た人のためなのか、どっちだと考え込んでしまいました。
墓石の形と色とて多様でした。大きな本の見開きした薄茶色の墓石には、あの「千の風になって」の歌詞の一部が彫られてありました。
私のお墓の前で、 泣かないでください。
そこに私はいません。眠ってなんかいません。
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
そもそも、故人に伝えているのか、故人が墓参に来た人に言っているのかと考える方が可笑しい。どっちでも良いよ、墓石の前に来た人がやすらぎを覚えるならそれで良い。自分が、自分で思い至った結論でした。
その墓苑には樹木葬の墓もあります。生前の義父と義弟が選んだのは樹木葬でした。樹の前にある板碑には既に義弟夫妻の名が刻まれて有ります。