[エッセイ・3―その7]妹が18日に東京に帰って、ここからは全く単独行です。19日、20日と、一関市内に有る大槻玄沢と関係のあるお寺を2軒、訪問させて頂きました。
知り得るところでご教授頂きたいと、事前に自己紹介等の手紙を出し、返信用の切手、封筒等を揃えてご連絡したところですが、お寺さんから返信の無いままの訪問でした。
お寺は不意に法事が発生することもあれば、返信しにくい事だったでしょう。残念ながら1軒はご住職に会えたものの質問も出来ず、もう1軒はご住職にも会えず質問も出来ず帰りの途につきました。
時間が空いたので19日は再度一関市博物館を訪問し、執筆予定の事の再確認に充てました。蝦夷(えみし)の「蕨手刀」(わらびてとう。特徴は柄の部分と刀身が一体となっている)と京の都の武官達が持っていた「衛府の太刀」(えいふのたち)が合わさって出来た「反り」のある刀、その日本刀の源流とも言われる舞草刀(むくさとう)は、一関に有る舞草鍛冶職人によって造られたと伝わっています。
日本刀の源流がここに在るのです。博物館内には刀掛けに何本もの舞草刀(日本刀)が飾られて有ります。
20日は、今後の日程を変更して仙台滞在を1日多くしようと、新幹線切符の確保と、宿泊先への連絡に奔走しました。21日金曜日に布団干し、洗濯物の整理。ガス、水道等の戸締り、冷蔵庫の整理等の1日、休息と予定していたのですが、これなら戻って午後に戸締りをし、21日は朝から山形県米沢市に出て上杉神社、米沢上杉博物館に行こうと決断したのです。
みどりの窓口の駅員に、藤沢発バス、朝6時27分と伝え、そこから一関、福島、福島で乗り換えて米沢、その日の夕方には米沢から福島、仙台と戻る行程の時間設定を教えて頂きました。米沢滞在はそれでも6,7時間確保出来るとの事で、その計画に乗りました。
21日、土曜日。上杉神社中心に博物館も含め歩き廻りました。 大槻玄沢の開いた塾、芝蘭堂の門人姓名簿に初の入門者として名が載るのは、寛政元年(1789年)7月27日、の米沢藩の堀内林哲、宮崎元長に、笠間藩の佐野立見です。
三人の入門は、玄沢の師匠でもある杉田玄白の紹介でもありますが、堀内、宮崎を江戸蘭学の勉強、西洋医学を勉強せよと差し向けたのが、米沢の藩政改革を実践した、為せば成る 為さねば成らぬ 何事も で有名な上杉藩第9代藩主・上杉治憲(上杉鷹山)なのです。
時は、すでに上杉藩第10代藩主・上杉治広の頃なのですが、小生の目的は、当時の上杉藩がどのような状況に有ったのか、特に医療の充実を欲する上杉鷹山の周辺に何が有ったのか、それをより調べられればと出かけたのです。
米沢市医師会と博物館とでまとめた「堀内家文書の解題」を頭の片隅に置きながら、また、同博物館の学芸員に以前に質問した事等を整理して出かけました。
成果が有りました。上杉治憲(隠居後、鷹山を号する)が江戸に滞在し、杉田玄白の解体新書や蘭学を目の辺りにしていたことが冊子、「米沢藩医家の系譜。~堀内家文書を中心に~」の「鷹山の腰痛・家族の死」の項に記載されていたのです。
米沢蘭学とも言われるように、堀内、宮崎が江戸遊学を終えて帰郷し、米沢に医学館好生堂が創設されたのは寛政5年の事です。
堀内林哲は実に筆まめな方であり、堀内家文書として杉田玄白や大槻玄沢、司馬江漢等と生涯交流した手紙が多く残されています。玄沢の悪口さえも言う江漢の手紙も残されています。
小生の作品「大槻玄沢抄」中巻、第14章 寛政5年の中に、「二 司馬江漢の頼み事」と項を立て、江漢の地球全図に掛かるやり取りを執筆しています。その全図の序文を書いたのが大槻玄沢です。
2015年1月16日、このブログに投稿。下記文面が逸れです。
米沢から福島、仙台と戻り、宿泊先のユースホステル「メープル仙台」に着いた時には夕方7時に少し前でした。
その頃、先に東京都板橋区に帰った妹から所沢の小生の妻に、兄の口の様子がおかしい、ろれつが回っていないのではないか、以前にもこのような事は有ったかと尋ねる電話が入っていたのでした。
そして、翌日、22日土曜日。開館と同時に宮城県図書館「みやぎ資料室」を利用し、夕方になって、自分自身が何か変?と思ったのでした。
後は、「エッセイ・3―その1」と成ったのでした。
この顛末記、今日で、お、わ、り。




