[エッセイ・3―その1]:パソコンを前に、三度目のこのエッセイのテーマを何にしようかと戸惑いました。その結果、エッセイと言うよりも、小生の凡そこの三週間の顛末を記して見ることにしました。
作品を読んで下さる皆さんに本年一杯お休みを頂くと付記に記して凡そ2ケ月になるでしょうか。パソコンの画面が見えなくなる。右の耳が殆ど聞こえない。その症状からお休みを頂くと申し出たところです。
ところが、この7日からの一関市帰省による父母兄弟の墓参の後、家族、姉弟等と別れて仙台、米沢を一人取材旅行中思わぬことになってしまいました。
最後の宿泊地、仙台は4泊5日。大槻玄沢と大槻平泉に係る調べ物を予定していたのですが、宮城県図書館で応対してくれた司書とのやり取りをするうちに己の口がおかしい、ろれつが回らない等を自覚するようになったのです。
宿泊費節約のため、何時もお世話になっているユースホステルの小父さん、小母さんに迷惑を掛けられない。慌てて妻に連絡し、文献調査等を中止して所沢に帰る事に成ったのでした。
土曜日(22日)夜遅く、急遽、仙台から所沢に帰って来ました。そして昨日(24日、月曜日)病院の脳外科で診て貰いました。レントゲンにMRI検査を行い、その結果、脳梗塞はない、その疑われる個所も無いと診断が下りホッとしました。
疲労と水分不足が大きな原因であろう。それと、レントゲン写真を見れば頸椎の骨と骨との間隔がつぶれている所が3か所あると指摘されました。
耳が遠くなったのは老化現象の所為でも有ろうけど、改めて耳鼻科に行くようにと忠告もされました。左耳の聴力を失っている小生にとって右の耳の聴力保持は取材時等にも重要な事です。
生家は街の中の一角に在っても今は誰も住む人の居ない家です。帰省すれば何時も部屋の大掃除に布団干し、家やお墓周りの草取りが必須です。加えて今回はお坊さんに頼み込んで9日に法事を行い、8本の卒塔婆を新しくしてもらったところです。
妻や娘等が帰った後の12、13日に弟の発案で大船渡温泉に1泊でした。大船渡の名勝、碁石海岸を見たいと言う弟の発案に賛成した小生です。というのも途中、陸前高田市を通るからです。日本赤十社に籍を置いて、東日本大震災当時、二度、陸前高田市に支援に入った小生ですから復興の状況がどの様になっているのか確認したい気も有ったのです。
温泉行は妹75歳、誕生日を迎えたばかりで70歳になった弟(弟の年齢を数え間違っていたと分る始末でした)、小生、78歳の3人です。そこまでは良かったのですが、あの震災の影響で気仙沼から先に行く大船渡・盛線はBRT(高速バス輸送)のままです。
12日朝早く家を出て、千厩町から気仙沼市、陸前高田市、大船渡市に行く予定でした。震災時に見た、街が消え、残る家々のコンクリートの基礎と、海水が引いて高さ十五メートルもある竹藪のてっぺんに幾つものビニール袋が引っかかっていた陸前高田市の光景を今も忘れる事は出来ません。
復興状況を見るのはかつて帰省した折、震災から三年目と今回の二度になります。
今回、バスの中からみた光景だけですが、資本力のあるスーパーや、薬・生活用品等を売るお店の復活と公共機関の建物と道路の整備だけが目に付き、一般家庭の在った多くの所は、凡そ十五年経った今も雑草が生えているだけでした。高くも成ったコンクリートの堤防に、奇跡の一本松は健在でしたけれども哀しくもなりました。
年老いた者に、今更、家の確保のために大きな借金を負うのは酷な事です。今に能登半島や熊本の震災がテレビに映し出される光景に、ついついお年寄りは如何するのだろう。家の確保は大丈夫か、雨露を凌げるか、そういう思いになってしまいます。
「人間を救うのは、人間だ」。日本赤十字社から初めて頂いた小生の名刺にその言葉が添えて有るのを見たときは驚きました。でも今は、自然の与える過酷な災害に立ち向かえるのは人間しかいない。人の支え合いしか無いとつくづく思います。