途中に在ったトイレに寄って開山堂に回った。外観は何処かの木製の倉庫にも見える(校倉づくり)が、毛越寺の開祖と言われる円仁和尚を祀っている。
堂内は赤い絨毯が敷き詰められている。一段高くある所で禅定印を組み、座禅姿の仏像だ。当然、円仁和尚だと思っているに、木札が二つあり、一つには金剛界、大日如来とある。あれっ、前に見たときは・・・。円仁さん?、大日如来様、どっち?と分からなくなった。
仏像の周りに有るのは蓮の花を模した物なのだろう、どれも金色に輝いている。
「見ればお辞儀をする、自然と合掌するのはお寺だからかな」
そっと千田が言った。周囲に多くの観光客が居たけど静まりかえっても居る。
三人揃って合掌し礼をしたけど、俺は疑問が解けないままだ。黙って佐々木が指さした。その先には藤原三代の肖像画が一幅の掛け軸の中に描かれてある。傍に置かれた木札には藤原三衡公画像とある。
佐々木は、藤原秀衡は右か、左の人物かと聞く。上が清衡、右が基衡、左の頭巾を被っているのが秀衡と、そっと教えた。
御堂を出て、少し歩いたばかりに、佐々木だ。
「良いねー。この景色。ここから見る浄土庭園も良いねー」
態々、浄土庭園と言っているようにも聞こえた。遙か向こう岸まで長々と見える大泉が池だ。左右近くに有る菖蒲園のアヤメはまだ青々とした茎だけだ。蕾を見せていない。右手に築山と松林が続き、左手に人工なのだろうあたかも海の砂浜にも見え、松林、杉林が続く。明るい陽射しに青空と白い雲が湖面に映る。
「絵画を観ているようだね。
(開山堂に)入る時は、気付かなかったよ。
振り返っても居ないからね」
景色に見とれながらも、毛越寺も中尊寺も同じ年(嘉祥三年、八五〇年)に、同じ人物、円仁和尚によって開かれたのだと知って貰わねばと思う。
円仁さんと言うより、俺は慈覚大師と覚えている。
「何時もだと、六月十日頃から「毛越寺あやめ祭り」が開かれ(てい)るよ。
毛越寺も中尊寺も同じ年に、同じ人物、慈覚大師によって開山されているんだ。
(慈覚)大師は唐(中国)に渡って修行を積み、日本に戻って国内を旅している。
天台宗の教えを説きながら、全国凡そ七〇〇箇所のお寺を開祖したと伝わっている」
「七〇〇?。凄え。
毛越寺、中尊寺も同じ年って、何年?」
「八五〇年。八五(御堂)を造る(〇)ってことだね
お坊さんが造ると言えば、開山開祖。お寺を造ると言うことになる」
「覚え易い。中尊寺、毛越寺、八五〇(年)造る慈覚大師、と覚えられるね。
成程」
千田の質問に、佐々木の感心する言葉だ。
「天台宗、真言宗は加持祈禱を行い、往生するまでに隠されている教えを学ばねばならない、それ故、密教と言われる。
だが、天台宗の教えを学びながらもひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、人は皆、死後平等に往生できると説いたのは法然だ」
二人に説明しながら、あっ、と思った。故人や御先祖様の供養が主な教えだった宗教も、平安時代末期には自らの死後の往生を願う信仰に変わった、信仰心の変化だと先に言ったけど、それは法然さんの教えに大いに関係していたんだ、と今になって思う。
法然和尚は浄土宗の開祖だ。密教と言われる天台宗、真言宗に対して、より一般大衆に仏の道を説いた顕教と言われる浄土宗だ。法然さんは平安末期から鎌倉時代初期のお坊さん。時期が一致している。素人の考えか。
「その教えは浄土真宗の親鸞に続く」
「歎異抄だね」
佐々木が続けて言った。
法然も親鸞の話も吾妻鏡に出て来る。東北各地で教えを説いて来た親鸞は江戸に寄って長逗留、葛西清重の保護を受けている。清重は親鸞のためにあの葛西の地(現在の東京都葛飾区)に御堂を建てても居るのだ。
また、清重は親鸞の教えに帰依し、己の名を西光坊清重と改めても居る。それを言えば話がまた長くもなる。話の方向を変えた。
「佐々木の家の在る東京。
あの浅草の浅草寺も、目黒不動尊として知られる瀧泉寺も天台宗だよ。
大槻玄沢は浅草寺にも、当時はまだ周りに田畑や野が広がる目黒不動(尊)にも出かけて(い)る。
お参りしているみたいだよ(大槻玄沢著、夢遊西郊記の記述ほか)」
「へー良く知ってんねー」
ニコニコしながら、千田は感心するばかりだ。
