毛越寺本坊とある両側が白壁の門を潜ると、庭園が広がった.何度観ても、金鶏山を後ろにしたこの大泉(おおいずみ)(いけ)の景色が良い。

「良い景色だね」

「だろ。これが浄土を表現した浄土庭園と言われる池だ」

 自慢したくもなる。今日は周りに人も多くて雑音も入るが、普段は人が居ても静だ。心の落ち着く所だ。

「平安時代末期の庭園だそうだ。

 浄土を現わすに、仏様を(まつ)る阿弥陀堂とか金堂を造る。その阿弥陀堂(金堂)等の前に大きな池を配置する。

その意味は、「大海を越えて仏様の所に行く、浄土に至る」ということらしいんだ。

 同じ平安時代に寝殿造庭園と言うのもあるらしいんだけど、違いは庭園の中心に阿弥陀堂(金堂)が置かれているのが浄土庭園の特徴だそうだ。

 前に、お坊さんの説教を聞いた事があるけど、信仰心の変化が庭園づくりにも影響しているらしいよ。

 以前(・・)()故人(・・)()御先祖(・・・)(さま)供養(くよう)が目的で本堂、その他等の造営、寄進がされていた。それが平安時代も末期には、自ら(・・)()死後(しご・・)()往生(・・)()願う(・・)信仰(・・)に変わって来たんだそうだ。

 龍澤寺(りゅうたくじ)で見て来た「(だつ)()()(けん)()(おう)」の石像に見るように、三途の川でこの世における行い、生き方を問われるようになるとの考えが広がった、信仰心の変化らしいね。

 毛越寺は藤原基衡(ふじわらのもとひら)夫婦と息子の秀衡(ひでひら)によって建立されている」

「へー。小野寺は仏の世界にも詳しいね・・・」

「医療は科学。信仰心は非科学。

 人間の心は科学だけで語れない。

 小野寺が如何(どう)のよりも、医者を目指す俺達にはバランス感覚が必要なのかもね。

 患者さんの訴えることを良く聞きましょう。それが診療の第一歩という教えは、まさに非科学的な事じゃない?」

「いや、次の科学的追及のために良く聞きましょうとも言えるよ」

 佐々木の言葉を修正してから言った。

「話が変な方に行ったね。(話を)戻すよ。

 この浄土庭園方式の代表が十円玉だよ。宇治の平等院だ」

「池の中に立つ石は何を語るのだろう?」

 言いながら指さす佐々木に言った。

「平等院の美は左右対称の伽藍(がらん)だけでなく、大池に写るその姿だ。

 四季折々の景色に囲まれた平等院は、多くの人々に感動を与えているだろう。

 毛越寺にも新緑や紅葉等と共に大池に映る阿弥陀堂(金堂)が有ったんだよ」

 俺も(過去に)聞いてると言いながら、久しぶりに見る景色だけど良いねと千田だ。湖面は、杉木立とまだまばらな新緑にある木々、青空と、浮かぶ白雲を映している。

「ここにも、平等院に似た建物が有った。

 鎌倉時代末期に編纂された鎌倉幕府の公式記録、「吾妻鏡」に、毛越寺には仏堂や仏塔四十余、お坊さんの住む禅房(ぜんぼう)五百余、講堂、惣門(そうもん)鐘楼(しょうろう)経蔵(きょうぞう)等が有り、中尊寺を(しの)ぐ規模なりと記録されているんだ」

「吾妻鏡?、山ノ目(駅)の車の中(の話)でも出て来たね、読んだの?」

「うん。吾妻鏡の解説本まであるからね。面白いよ。

 大槻玄沢は葛西清重の末裔(まつえい)って話、したろ。

 吾妻鏡は、毛越寺の事も葛西一族のことも詳しく書いているんだ。

 葛西清重の事は先に話したね。従兄(いとこ)千葉(ちばの)(すけ)(つね)(たね)が居るとも話したね。

 吾妻鏡は常胤とその息子六人までも詳しく書いているんだ。

 源頼朝(みなもとのよりとも)を最も支援したのが常胤なんだ。

 (より)(とも)の父、源義朝(みなもとのよしとも)は(平治の乱の時に)平清盛(たいらのきよもり)との争いに敗れた」

 二人とも頷く。

「その時に()朝軍(・・)()加担(・・)して(・・)いた(・・)(よし)(たか)も討ち死にしている。

 その義隆が遺児、(より)(たか)を常胤が、吾が子同様に手元で養育していた」

 黙って聞く二人だ。

「平家討伐の旗揚をした頼朝だったけど、その初めての戦で敗れ下総(しもうさ)(現代の千葉県)に逃れ、そこで頼隆の面倒を見ていた常胤を知る」

 佐々木だけが頷いた。

「頼朝は、血のつながる源氏の子を養育して居て呉れたと非常に感激し、その時常胤に、私の父でもあれ、そうあって欲しいと、『以後、(すべか)らく司馬(千葉)を以って父となす』とまで言っているんだ。真偽はともかく、吾妻鏡にそう書いてあるんだ。

以後、頼朝と常胤との間は実の親子のような関係が築かれて行く」

 黙って聞く二人になった。

「頼朝の妻、政子が初めての子、後の鎌倉(幕府)二代目将軍、頼家を身籠ったとき、常胤は妻に命じて安産祈願をした腹帯を頼朝に届けている。

 また、頼家が誕生したときにはお七夜の儀を主催しているんだ。常胤と息子六人が白い水干(すいかん)(はかま)姿で庭に(かしず)き、嫡男(たね)(まさ)と次男(もろ)(つね)甲冑(かっちゅう)(よろい)を掲げ、三男(たね)(もり)と四男(たね)(のぶ)は馬を引き、五男(たね)(みち)弓箭(ゆみや)を持ち、六男胤頼(たねより)(けん)を持って武門の頭領(とうりょう)の子の誕生祝いをした。

 頼朝は頼朝で、年老いた身で源平合戦に従軍して西国に在る常胤を心配している。軍を率いる弟の源範頼(のりより)宛ての手紙の末尾に、『千葉介は(いくさ)にも高名(こうみょう)ある、大事にせられ候』と書き送っても居るんだ。

 また、藤原三代を潰した奥州合戦の後の論功行賞を行う際には、『およそ恩を施すごとに常胤を以て初めとなすべし』と言っている。それらの事も吾妻鏡に記録されている。

 もっと加えて言うとね、頼朝が初めての征夷大将軍に任じられて迎えた一一九一年の元旦、その御祝の膳を常胤が整え、千葉一族が総出で祝っているんだ。

 鎌倉幕府の公式記録と言われている吾妻鏡だよ、そこに書かれている事なんだ」

(すげ)えなァ、そんな事まで知って(居)んの?、

 良く覚えて居ん(る)なァ

 小野寺、凄いよ。

 俺は丸暗記で、一一九二(いいくに)(年)造り、鎌倉幕府、源頼朝。と高校で習った事のほか、知らなかったね。

 鎌倉幕府成立年がその一一九二(年)から、一一八五(いいはこ)(年)造りに変わったらしいことは新聞やテレビ(ニュース)で知ってたけど・・・」