「いや、歴史好きと言うより、大槻玄沢がどんな人か、
何故西洋医学を学ぶことになったのか、何故翻訳専一を志したのか、
何故西洋医学発展に貢献したのか、誰とかかわりが有ったのか、
何故一関駅前の銅像になったのか、
それを調べていて、知らなかった多くを知る事になったんだよ。
大槻玄沢を知るに大島英介著「槻弓の春」。岩手日日新聞社の出版となっていたな。それと、思文閣出版の洋学史研究会編「大槻玄沢の研究」。吉川弘文館の人物叢書、片桐一男著、「杉田玄白」を読めば玄沢の事は大概知る事が出来る。
もう一つ追加するとすれば、玄沢が自ら書いて残した「瓊浦紀行」だね。
当時、玄沢の面倒を見ていた人々が、その書の冒頭の送別の宴にも見送りにも登場している。送別の俳句、詩を寄せても居るんだ。
また、道中に知った人々もそうだけど、長崎で知り会った人々が、玄沢が江戸に戻った後に再会したり、文通したりして玄沢の活躍を支えているんだ。
玄沢が吉雄耕牛に頼まれて、長崎から一緒に江戸に連れて来た馬田清吉(後に石井恒右衛門、石井庄助と改名)などは、玄沢の私塾芝蘭堂で、芝蘭堂の四天王とも言われる稲村三伯、宇田川玄随に和蘭語を指導し、後に寛政の改革で有名なあの松平定信の家臣にもなるんだ。
また志筑忠雄は、玄沢を長崎で見送ってからというもの、十六、七年後に長崎に来た玄沢の倅玄幹と従弟の大槻平泉を凡そ一年余も世話しているんだ。
世間に名を成し、大きくもなった玄沢は、仙台藩を支援する幕府の若年寄、堀田正敦と天下の政の一端を論じるようにもなるんだ。
千田もいかにも初めて知ったという顔だ。感心顔の佐々木だ。何故か優越感を覚えた。
「最後に聞いていいかな。
金色堂のそれぞれの墓に有ったという三体のミイラ。
今はどの様になっているの?」
「地下の墓じゃないよ。今はあの金色堂の須弥壇に安置されているんだ。
発見されたときには保存状態が良くて一般公開された時期もあったらしいんだけど、それで保存状態が悪くなる一方で今は公開されていない。
誰でも見てみたいと思うけど貴重なミイラだ。仕方無いよね。
AIか何かで腐食を止めるより良い保存方法が見つかれば良いけどね。
それなら一般公開も期待出来るけどね」
納得顔の佐々木だ。
「良し、会計済ませて出よう。二時、ちょっと回ったね。
馬も登って来るんだ。騒音禁止だろう。
途中、動かないで下さいと声が掛かるね。行ける所まで行って見よう。
見れれば何処でも構わないよ」
千田が黙って頷いた。嬉しそうな顔だ。
俺達と同じ考えだったのだろう、レジの前は行列が出来ていた。
参道に戻ると、本堂前もその先も人、人だ。動かないで下さいとの声を聞くまでも無く、碌に前に進めない。
本堂前を少し過ぎた所で、行列が間もなく来ます。馬も居ますのでお静かにお願いします、動かないで(移動しないで)下さいと声が掛かった。
「(馬が)暴れ出したら大変だものね。騒音禁止だね。
(シャッター音)スマホなら良いか・・。
ハハハ・・。何かワクワクするけど、緊張する」
千田の言うのを聞いた。佐々木は、目の前の杉並木を見上げた。
行列を待つ間に、駐車場を三時半までに出られれば良い、毛越寺まで車で一、二分、毛越寺と観自在王院跡の見学、散策に小一時間、そして、毛越寺から達谷窟までの移動と駐車場に十分、見学に十分。それから厳美渓に約三キロ、五分で移動。見学だ。
陽が伸びているから大丈夫だろうと思いながら、この後の時間と距離を計算した。
