「前野良沢の所に通い出した玄沢だ。
良沢は玄沢の熱心さと、覚えの良いのに感心したんだね。
玄沢の次の悩みは一関藩から許された二年と言う遊学期間だった。
良沢の所に通うようになるまでに半年以上も日が経っていたからね。
それを知った良沢は一関藩の本藩に当たる仙台藩に属する友人、工藤平助に相談した。
工藤はもともと仙台藩の藩医で良沢と一緒に蘭学を学ぶ仲だった。それが、藩主の願いで髪を結い直し、その頃には仙台藩の台所を預かる程の実力者だった。また、蝦夷地開拓を夢見る経世家でもあった。
玄沢は、工藤平助の口利きで二度も延長、一関藩から都合四年もの遊学期間を貰った。また、他にも色々と面倒を見て貰うようになって、工藤とは江戸における父とも思うほどの交流をして行くんだよ。
また、その頃に玄沢は、己の教えに使われている良沢先生の和蘭語の本(前野良沢著の和蘭訳筌)と言うのか手引書と言うのか、それを書き写して天真楼社中の皆々に見せて居たんだね。
天真楼での授業や仕事の手伝いを抜け出して良沢先生の所に通わせて頂いて居たのだから、皆々に恩返しの意味もあったのかも知れない。俺の推測だけどね。
披露したのは単なるABCだけでなく横文字の一文、文例なんだ。
勿論、その意味、訳文も付してある。十中六、七割が良沢先生の和蘭訳筌に載っている物だよ。だからだと思う。玄沢は、自分の作った物に和蘭鏡と名付けているんだ。その和蘭鏡が天真楼社中の皆々に評判になった。
良沢先生に断りも無く作りもしたのだからお詫びなんてもんじゃない。時代を考えたら。即刻、明日から来なくて良い、破門だとさえ言われかねないと思う。
だけどその頃には前野良沢は玄沢の熱心さにも、真摯な態度にも感心していたのだろう。むしろその事実を知って、己のその和蘭訳筌からこれはと思う物をもっと使っていいとさえ言っているんだ。
良沢の度量の大きさと、玄沢に対する期待が大きかったことを思わせるエピソードだったと俺は思うね。
二十六(歳)の時、いよいよ田舎に戻らなければならなかった。江戸を離れるに断腸の思いがあったけど、一関では(玄沢が)知らず婚儀が準備されていたんだ」
二人とも沈黙して聞く。三人寄れば何時もワイワイガヤガヤなのにと思った。
「五月にその祝言を挙げたものの、僅か三、四カ月で江戸勤番を命じられたんだ。
喜び勇んで、藩主の江戸上りに従った。天明の世の大飢饉と言われる最中、玄沢は再び江戸に出たんだ。
杉田玄白も、前野良沢も、そして、玄沢が江戸の父とも思う工藤平助も驚いた。
「嫁さんは如何した?」
「一関に置いたままだね」
「・・・・」
聞いた佐々木が沈黙した。
「以後、玄沢は医療技術を学びながらも、西洋の外科書や薬学薬草等の翻訳に一層の事力を入れて行く。
玄沢が代表作、蘭学階梯の草稿を書き上げたのは天明三年(一七八三年)、再び江戸に出た翌年らしいね。
二度の江戸生活、二十代の凡そ五、六年は玄沢の人生をくるくる変える出来事の連続だったと思う。
平賀源内の殺傷事件に遭遇したり、師匠である建部清庵の死や自身の父の死という不幸も有ったが、医療の面からも蘭学の面からも己を導いてくれる多くの先輩諸氏を知り、玄沢という名を頂き、由甫の杉田家養子縁組や己自身の結婚など喜ぶべき事もあった。
内科(本科)の事は由甫から名を改めた伯元に、外科(外治)の事は玄沢にと、杉田玄白の思いが語られたのも二十代だ(建部由甫の杉田家養子縁組が整った頃と伝わる)」
佐々木が聞く。
「平賀源内って、江戸時代の有名な発明家とか言われて(い)る人だろ。
玄沢は、源内にも有っているの?」
「平賀源内は、杉田玄白の親しい友人なんだよ。
天真楼の教壇に立って、漫遊して来た諸国の薬草、金山銀山の事等を玄沢達塾生に語り聞かせてもいる。
源内がある夜、酔って殺傷事件を起こして捕まった後、杉田玄白は小伝馬町の牢屋に着替え等の差し入れにも自ら行っているんだ。
獄死したと聞いて、玄白はその夜に中川順庵、有坂其馨、玄沢等も集めて自宅で通夜を行っている。その後の日には源内のために墓地の確保、墓石建立がために走り回っても居るんだ」
「へー、聞かないと分かん(ら)ないね。
杉田玄白は解体新書、西洋医学を初めて日本に紹介した人としか覚えていないからね。(大学)受験対策の内だったね」
千田の言うに、佐々木が苦笑いだ。
