「二時まで、ここで休んでいるの?」
「小野寺の話を聞こう。二十一、二(歳)で江戸に出た大槻玄沢だろ。その続き。
二時まで、まだ四、五十分ある。
コーヒー、お変り頼んでも良いんじゃないか」
「そうすっぺが(そうするか)。小野寺先生、お願ゃすます(お願いします)」
地元言葉混じりでお道化て賛意を示した千田に、三人で笑った。
「大槻玄沢は建部清庵の息子、十六(歳)に成る建部吉甫と一緒に江戸に出た。
杉田玄白は、古来からの医学技術も未熟なのに、一年や二年で西洋の教える医学医術を習得出来ない、ましてや西洋の医書の翻訳など出来る物ではないと最初は二人の入門を断わったんだ。
許可には、先に江戸に出て玄白の所で学んで居た建部清庵の長男、亮策(三代目、建部清庵)の後押しがあった。
亮策は、身体の不調を訴えるようになった父(二代目、建部清庵)の後を継ぐために一関に戻らねばならない。
かといって西洋医学の重要性を知っても居たから、東奥に西洋の教えを伝えねばとの思いで、二人の入門が許されるまで説得に駆けずり回ったんだ。
二人は弟子入り出来た。
玄白が営む天真楼、別名、三叉塾に学び、有坂其馨、桂川甫周、石川玄常、中川順庵など西洋医学書の翻訳、解体新書の作成に当たったメンバーを知る。天真楼で身近に彼等の講義をも受けているんだ。
だけど、半年して、天真楼での蘭学指導が十分な物ではないと知った玄沢は西洋医学を学ぶために蘭語の翻訳が出来る人物を求めた。
玄沢は、師匠、建部清庵が田舎に在る時に語った「蘭学が出来ること、翻訳出来る者こそ今の世の豪傑ぞ」の言葉が忘れられなかったんだ。
当時の江戸における蘭学の第一人者は、解体新書の作成に中心人物として参加していながらその新書に名を残さなかっ前野良沢だ。
玄沢は、有坂其馨や中川順庵、福知山藩・藩主、朽木昌綱などのアドバイスもあって前野良沢の所に何度か足を運んでやっと弟子入りを許されたんだ」
「その記録って、有るの?」
佐々木の質問に答えた。
「ある。弟子入りを許されても、通うとなれば玄沢はその時間、天真楼で学ぶ時間を欠席することになるからね。
杉田玄白の許しが無ければ前野良沢の所に通えない。玄白の残した鷧斎日録という日記に、弟子入りするのは相当に難しい、だが、玄沢が前野良沢の所に通うようになったと記録がある。
有坂と中川はアドバイスをしながらも、弟子入りは難しいぞと何度も玄沢に言って聞かせていたらしいね。
有坂は、杉田玄白の奥方の弟に成る人だ。玄白が屋敷の同じ屋根の下に住み、吉甫や玄沢の面倒を何かと見て呉れた人だ。
日頃から二人の相談役でもあった。良い人だったんだね」
「福知山藩(現、京都府福知山市)の藩主、朽木昌綱が何故出てくるの?」
今度は千田だ。
「朽木昌綱は、玄白の天真楼に出入りしていた大名だ。
解体新書に感銘を受けて西洋医学を学ぶと言うよりも、諸外国に感心が有ったんじゃないかな。
玄沢には有坂の紹介だった。
そうそう、杉田玄白はその頃に、建部清庵の付けた玄沢の名、元節は呼びにくい、玄沢と名を改めよと言っているんだ。大槻玄沢の誕生だったね」
「名の謂れが杉田玄白に前野良沢、師匠二人の一字に有るとなれば名誉なこと。
文句言えないね。納得出来る」
「玄の字は、故郷、一関磐井川の近くに在る黒沢村の黒にも通じると、玄沢は満足を覚えたらしい。
玄の字は玄人の玄でもあるよね・・・」
佐々木は何も言わずに頷いた。千田も納得顔だ。
