・かんざん亭
元の参道に戻る途中、右手にかんざん亭はこちらと誘いの看板が出ていた。
向かいながらに、千田が入り口傍の壁に掲げられてある木製の大きな看板を指さした。
「腹減ったー。
関山は(中尊寺の在る)この山だけど、酒の名にもある。
親父が酒好きで一緒に飲むことも有るけど、甘口だね」
「今夜は、俺ん所で飲むよ。
家の親父も日本酒(党)だ」
入り口には、メニューを表示した立て看もあった。
中は満席に近かった。他人の頭越しに、ガラス窓からくっきりと焼石岳連峰が見える。昨日の雨に洗われてか、高山植物の宝庫とも称されるに相応しい綺麗に緑がかった山肌だ。青空と、降り注ぐ太陽の光が一層山々を引き立てている。
佐々木と千田が並んで席を取り、俺の右隣に三人の手荷物を纏めて置くことにした。
「自然薯蕎麦、大盛」
佐々木の言葉に、千田も俺も同じと注文した。大盛はプラス二五〇円とある。
「その前に、ビール」
佐々木の言うに、右に同じと追加したが、メモ用紙を手にした小母さんはアルコール類を置いて居ないと応えた。
小母さんの後ろ姿を見送る佐々木に、日本に初めてビールを紹介したのは大槻玄沢だよと知識を披露した。
「えっ。本当?」
「玄沢は、西洋の様々な文物を挿絵付きの本にして江戸市民に紹介しているんだ。
何しろ、西洋人に踵が有るとか無いとか馬鹿げた話がまかり通っていた時代だ。
それらを正すと言いう意図があったみたいだね。
「蘭説弁惑」と言う本がそれだ。門人の質問に玄沢が答えると言う問答形式を採っているけど、天明の世に江戸市民を対象に誤った理解を正そうとしている。
表題からしても成程と頷けるね」
「天明の世って・・、いつ頃?」
「玄沢が長崎から江戸に帰って来てからの事だから・・・、自ら運営する芝蘭堂という蘭学塾を開設したのが一七八六年・・・。だから・・凡そ二百四十年前だ。
蘭説弁惑は長崎で学んできたこと、知ったことを元にして書かれているんだ。
蘭学入門の奨めと言われ、今で言うベストセラーになった蘭学階梯を出版したのも一七八八年と覚えている。
ビールは麦から造られる酒だと紹介しながら、食後に用いる物にて飲食の消化を助けるもの、身体に良い物とビールの効用についても触れているんだ。
(玄沢は)医者だからね」
幼いと言うのか、髪を後ろに束ねて高校生らしい顔をした女性だ。小母さんを手伝って蕎麦の載るトレーを手にしていた。アルバイトらしい。
三人共、暫くは無言のまま蕎麦にがっついた。
この後、如何するのと千田が聞く。見れば、既にザルは空っぽだ。
「コーヒー飲んで、もう少ししたらここを出ようか?
行列が二時半頃に月見坂を上り始めるとして、坂のどこか途中で場所取りして、行列を見ることにしよう。
いやー、想像していた以上に人が出ているね。
交通規制もこんなに厳しいとは思っても居なかったよ。
出がけに、今日は交通規制があるぞって親父が言ってたけど、軽く考えていたね。
(義経)行列がこの山に上って来るまで、下の通り(道路)は(交通)規制が厳しいままだと思う。
金色堂に至るまで(月見)坂も人、人で身動きできないんじゃないかな。
早め(行列を)に観る場所取りが必要な気がする。
御免。読みが甘かったよ」
「今・・・、まだ(午後)一時ちょっと過ぎだよ。
食べて、直ぐ(ここを)出るのは、早くない?」
言う千田が、佐々木の顔を伺う。
「何処で観る心算でいたの?」
「参道の途中。
もともと月見坂を下る途中で見る心算でいたよ。
駐車場に三時ちょっとまでには戻る。三時を過ぎれば、交通規制も緩やかになると計算しているんだ。
そこから毛越寺に向かい、庭園(等)を観る。
四時頃に達谷窟(毘沙門堂。達谷西光寺)に到達、見学する。
それから、厳美渓に行く。
ただ、参道での場所取りが必要とは思っても居なかったよ。
目の前を行列が過ぎて行くのはたかだか五分。その場所取りが必要とはね。考えもしていなかった」
「予定通りに行こう。
ただ、ここを出るのは・・・、もっと遅く、二時頃にしようか。
それで動きが取れるところまで(参道を)下ろう。
途中、行列が通り過ぎるまで動かないで下さいと警備員の声が掛かるんじゃないか。
本堂の辺りは人で一杯だろう。物見台か弁慶堂の周辺も人が一杯かも知れない。
警備員の声の掛かった所。何処であれそこで(行列を)見れば良いんじゃないか。
(小野寺の)思うように、駐車場に三時に着くかどうか分からないけどね」
「行列が山に入れば、(交通)規制も少しは緩くなるかも知れない。
(毛越寺に行くに)車を何とか出せるかも・・・」
