・金色堂
何時来ても、樹齢を重ねた杉木立の奥に金色堂が見えるのが良い。
だけど、春の藤原祭りが行われている最中なんだと改めて思った。讃衡蔵(宝物殿)の前は並ぶ人、人だ。
讃衡蔵と金色堂の拝観料(券)はセットになっている。順番を待つしかない。拝観料は大人千円だった。前に来た時よりも値上がりしたかな・・・。
少しばかり傾斜のある平べったいコンクリートの小道の先に覆堂だ。ここにも車いすを必要とする人のために右側か左側がスロープに成っていても良いのにと思う。
「ここもだね。スロープが設置されていて良い。
外国人観光客に日本を紹介するに相応しい建造物なんだから、(スロープが)あった方が良い。
杉の木を切らなくても、工夫すれば出来ると思う。
美観を損なわず出来ると思うよ」
言う佐々木は良い意味で経営者の視点に立っていると思えてきた。自分の生家が地域の中核病院の経営に関わって来たことに学んできたことなのだろうか。
お父さんが経営に深く関わっているのは勿論だけど、何時だったか、碌に家族と一緒に食卓を囲んだことが無い、弟や妹と一緒に海や山に連れて行ってもらったことも無いと不満を口にしていた時の彼を思い出した。
周りの杉木立等を見渡して居れば順番待ちもさほど苦にならない。
拝観券を手にしたまま、覆堂を覗いた。
「凄い。凄い。総金色じゃん!」
「初めて見ると、誰もが驚くよ」
観る人、観る人。四方から、凄い、の連発だ。
「小さな黄金宮殿だね。凄いよ。
建物も仏像もナマ、全部金?」
「いや、金箔だよ。仏像は三十三体。
解体修理で分かったらしいんだ。
金箔が施された形跡がないってんで屋根の部分だけ金(金箔)になっていない」
「それでも全体がキラキラして、覆いの中なのに太陽の光を浴びているかのようだよ」
「凄いだろ。光輝く仏の世界を知ってもらいたいと、それを現しているらしいんだ」
「平安時代の頃だろ?、九百年も前にこれが造られたなんて信じられないよ」
「仏も、仏壇の黄金の輝きに驚きもするけど、あの漆塗りの黒い四本の柱。
(それを)飾る透かし彫りの金具、蒔絵、螺鈿細工も凄いね。
長押にも貝細工、螺鈿細工だね。
当時の工芸技術も相当なもんだと分る。
凄いよ」
幾つもの他人の頭で遮られ観にくい。だが、覗き込み、感想を口にする佐々木だ。
「俺の記憶では、金色堂は一一二四年(天治元年)に造られたと覚えている。
天皇は崇徳天皇の時代だ。
須弥壇の正面が奥州藤原氏創設者、藤原清衡公。
(向かって)右に二代目、基衡公、左に三代目、秀衡公が眠る。
さっき、金色堂の解体修理って言ったけど、昭和の大改修の時に清衡、基衡。秀衡の自然にミイラ化した遺体が発見されているんだ。
(昭和三十七年の夏(七月)から四十三年、凡そ七年に渡って金色堂の大解体修理、文献調査が行われている)
それで言えるのは大槻玄沢だよ。江戸時代に、木乃伊は万能薬。
ミイラの丸薬をお湯に溶いて飲めば貧血、下血に効果がある。刀傷の止血に効果が有るとされていたらしい。
それが長崎も出島のカピタンか、そこに居た異人から伝わった事なのか分からないけど、玄沢が手にした蘭書にもミイラの事が書かれてあった。
それで、医者でも有り、翻訳専一と己の進む方向を心に決めていた玄沢が、そもそも木乃伊とは何ぞや、と調べても居るんだ。
現代なら笑い話だよね。ミイラと言えばエジプト。
俺達はエジプトの考古学者、早稲田大学名誉教授の吉村作治先生を思いもする。
だけど、玄沢は当時、治療の面から木乃伊を真剣に調べていたと記録がある。
その結果、本になったのが大槻玄沢著、六物新志だ」
「ロクモツって、どんな字書くの?)」
「数字の六に物だ。六物とはミイラに一角獣、サフラン、ニクヅク、エブリコ、人魚の事で、蘭書にどれもこれも薬として載っていたらしい」
「一角獣ってユニコーンの事だろ。それって・・・」
「額の中央に一本の角が生えた馬に似た伝説の生き物だよね」
千田の言うのを遮った。
千田も佐々木も首を縦にした。何も言わない。話の次を待つ姿勢だ。
だけど、周りは身動きが出来ない程になって来た。


