六 中尊寺

             ・月見坂

 あちこちでピーピー笛の音がする。

 パーキングは何処も満車を示していた。観光客を下ろしたかと思うと観光バスは直ぐに発車する。ひっきりなしに出入りしているが、その駐車場だけがまだ余裕があるようにも見える。

 思案した末に有料の中尊寺駐車場を諦めた。パンフレットで(あらかじ)め調べ、頭に入れていた坂下第一臨時駐車場に回ってみることにした。

 千田も佐々木も車内からきょろきょろだ。歩く人の多さに驚きながら、停める所ってあるの?と千田だ。

距離が離れた線路際になるけど無料の臨時駐車場に行って見る。応えながら、行って見ないと分からないと言う言葉を飲み込んだ。

 幸いに、何が有ったか一台がタイミングよく出ていく。少し待ってその後に駐車した。

「良かったね。駐車出来て。

 朝からこんなに人も車も出ているとは想像していなかったよ」

「今日は、義経行列(源義経公東下り行列)が有って交通規制ってあったからね」

「知ってた?」

「今は大東町も一関の内だよ。

 妹が市の広報誌を見せて呉れた。それで知ったよ」

「遠くから車で来た人も、知らずに進入することって有ると思うよ。

 都会なら目的地に行くのに何本も道路の選択肢があるけど、田舎じゃ一本道、限られた道路しか無い。

 折角、平泉の観光に来たのだ、良い思い出だけ残して貰いたいもんだ・・・」

「俺もそう思う。

 レンタカー借りる人にも、今日のことは丁寧に説明が必要だね」

「ここは、割と近いと思う。

 (中尊寺の)登り口まで五百トールぐらいかな。

 良かったよ。もう少し遅かったら完全にアウトだね。

 今、十時半を過ぎたばかりだ。

 中尊寺に金色堂を見て、途中にある(とこ)で食事をして休憩して、ここに戻るのは二時半か三時頃になるかな」

「それで構わない。

 ただ、武蔵坊弁慶のお墓参りも忘れず、行く(ところ)にして呉れよ」

「弁慶のお墓?

 俺も見たことも無いね」

 千田の言うに、本堂に行く通りに有る、直ぐ分ると応えた。佐々木は黙ったまま頷く。

 観光バスが目の前を通り過ぎた。信号を渡る正面に中尊寺入り口、月見坂の標示がある。何処(どこ)ぞの神社仏閣の様な門前街(もんぜんまち)はない。

 かなりの勾配の有る杉木立の参道だ。佐々木が、大槻玄沢もここを歩いたのかなと聞く。俺の知る限り、大槻玄沢が書き残している著作物に中尊寺を語る物はない。

「父親の藩医召し抱えが決まって、玄沢が父母と共に一関市街に住まいを変えたのは八、九(歳)の時。

 それまでさっき通って来た山ノ目の中里で生活している。

 遊び場だった裏山の(らん)梅山(ばいさん)は勿論のこと、歴史に有名なこの中尊寺が山(関山(かんざん))にも両親か誰かと一緒に来ていると思うよ」

 応えながら頭の中は「()遊金(ゆうきん)()()」(一八二五年刊行)を思い出していた。自分が目にした今に残る同書の末尾には、「公(大槻玄沢)、許しを得すして(金華山に)行かれたれば、文を夢遊に(たく)(託)して名を(しょ)せず、今その事の後に滅せんことを恐れて巻末に一言すること此の如し、明治十年、八月、不肖孫(ふしょうのまご)大槻文彦(おおつきふみひこ)記」と朱書きが有った。

 玄沢がこの中尊寺に来たか如何かよりも、その書と朱書きの大槻文彦の名の方が強く印象に残っている。

(大槻玄沢が石巻市(宮城県)の金華山に船で渡り、山に上ったのは文化九年(一八一二年)の事で、その書が発刊されたのは玄沢が亡くなる二年前(一八二五年)である)。

「親と一緒に一関市中に出ても、玄沢が故郷を後にして江戸に出立したのは二十一(歳)の時。俺達の今と同じ年だね。

 その時までにはここ(平泉)にも来ていると思う」

「一関も昨日は雨が降ったと思う。少しの雨だけど心配になったよ。

 でも、泥濘(ぬかるみ)も無くて良かったー。

 本堂までまだあるかな、こんなに距離が有ったっけ?」

「その前に、物見台も弁慶堂も出てくるよ」

「そうだったっけ?」

 千田の言うに応えながら、玄沢の続きを語った。

「来る途中、磐井川を超えて、この道を真っ直ぐ行けば右に一関市役所があると言ったね。その市役所の玄関入口の右側に建部(たけべ)(せい)(あん)の大きな銅像が有るんだ。

 清庵から宛先の無い手紙を託されて、江戸に在る杉田玄白に渡したのが衣関(きぬどめ)()(けん)だ。

全くの偶然だったね。江戸市中、甫軒が尋ね歩いた医者の家の一つだった。

 手紙の内容は、西洋医学に係る質問を江戸の医者に問い合わせる物だった。

 杉田玄白や前野良沢、中川淳庵(順庵)、桂川甫周など今の世にも名を遺す面々が、西洋医学を教える蘭書を翻訳している最中の質問だった。あの解体新書が世に出る前の事だ。

 杉田玄白は、陸奥(みちのく)にも西洋医学を学ばんとする者が居る。遅れた日本の医学よりも新しい知識を得んとする者が居る、仲間が陸奥にも居ると興奮して、その後、清庵と手紙のやり取りを何度か交わしているんだ。

 それが後に「和蘭医事問答」として杉田伯元編集、協力者大槻玄沢とで纏められ、杉田玄白の天真楼、三叉(さんさ)(じゅく)に学ぶ者にも、玄沢の()蘭堂(らんどう)に学ぶ者にも西洋医学の初歩を教える物として活用される。

 伯元は建部清庵の息子の一人、(建部)(よし)()で有り、玄沢と一緒に江戸に出たんだ。後に玄白の娘婿に成る。

 衣関甫軒はその後も何度か一関と江戸とを行ったり来たりしている。

 甫軒が一関に持ち帰った解体新書を目にして玄沢が興奮したのは無理もない。

 日本は人体の解剖が許されていない時代だよ。それがあの解体新書に頭蓋骨(ずがいこつ)脊髄(せきずい)、手、足の骨の構造と、内臓各種の姿形(すがたかたち)に役割、機能が書き込まれている。

 玄沢が、江戸に出たい、西洋医学を学びたいと願うのは当たり前だったね」

 佐々木も、千田も頷く。

「そう言えば、その頃の大槻玄沢の名は師匠、建部清庵に貰った元節(げんせつ)だ。

 元旦の(がん)に、節分の(せつ)の字だ。」

 黙って頷く二人だ。