三 無量光院跡

 左は毛越寺口とある標識の交差点を構わず通り越すと、直ぐに左側に平泉文化遺産センターだ。駐車場が一杯に有るとの表示が出ていた。

「皆、早いね。イチかバチか無量光院(跡)の方に行ってみよう。

 道路を隔てて反対側に成るけど、上手くすればそっちが空いているかも。

確か無料の駐車場だけど、ケチると言うよりも(駐車場を)確保するのが難しいね」

 幸いにも、(駐車場が)空いていた。二台分だろうけど、一台分あれば良い。降り立つと、平泉文化遺産センターとその後ろに(きん)鶏山(けいざん)が見える。

「あの低い山を金鶏山と言うんだ。センターの(そば)から登る。

 急な坂道だけど十分も登れば山頂に着く。

 頂上に雌雄一対の金の(にわとり)が埋められて有ると伝わっているけど誰も見たことが無い。

 金鶏山と、これから見る無量光院(むりょうこういん)(あと)、後で行く中尊寺(ちゅうそんじ)(もう)越寺(つうじ)、毛越寺の中に隣接してある観自在(かんじざい)王院(おういん)(あと)、この五つを以て平泉の世界遺産と言われているんだ。

 金鶏山をバック(背景)に、この池の側に在ったのが無量光院だ。藤原(ふじわらの)秀衡(ひでひら)が建立したと伝えられている。側に政務を行う平泉館もあったのだそうだ。

 平安時代の末期に奥州一帯に勢力を振るった奥州藤原氏だ。

 初代の清衡(きよひら)が中尊寺を建て、二代目の基衡(もとひら)が毛越寺を造営し、三代目の秀衡があの京都の宇治に有る平等院を模して無量光院を造ったと記録されている。藤原氏絶頂の時だったんだろうね。

 四代目が泰衡(やすひら)で、さっき話したとおり頼朝の前に没落の憂き目に有っている」

「思い出したよ。遠足で、ここにも来た。

 小学生の高学年の頃だろ。何を如何(どう)説明されたのか、全然覚えて無いね」

 千田の言うことも、佐々木は黙って聞く。

無量光院(むりょうこういん)は、あの宇治の平等院よりも大きく、池の中に人工の島が造られてあった。そこに渡る小道が造られても居たと記録に有るらしい。

 ここから院(無量光院)の(うしろ)に、夕日が沈んでいく金鶏山が見えたらしい。

 昔の人は何を思ったのだろうね。

 見える景色は浄土思想を体現していたと言われている」

 千田も、黙ったまま頷いた。

土塁(どるい)礎石(そせき)、松林だけの今の姿を見ていると、今の世にも無量光院を再現できないものかと俺でさえ思うよ。

 勿体ないよな。度重(たびかさ)なる火災で焼失したままなんて・・・」

「何時の世も権力者に理解がないとね。復元のスポンサーにならない。

 小野寺の言うとおりになって居たら、今の世にも観光客はもっと押し寄せるだろうね。

伊達政宗が藤原氏と何ぞ関係があったら・・・。

 政宗の時代は鎌倉時代から、奥州藤原氏没落から四百年も経っているからね・・・、ハハハ、そんな空想も面白いね。

 少し見て回ろう」

 鎌倉時代から四百年経って葛西一族が滅亡している。何時にか佐々木に話して聞かせる事が有っても、その滅亡に伊達政宗の偽計(ぎけい)が有った、豊臣秀吉も関りがあったとは今に言えない気がした。話が長くもなる。

          四 平泉文化遺産センター

 車は置いたままにして、車道を横切ることにした。ところが、一旦右に出て、斜め左に戻る。車の中で理解した事と実際に歩くとではこうも違うものかと思いもした。割と時間を要した。

 入館料無料の施設だ。展示室は撮影禁止とある。年表を見て凡その時代が分かる。藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡の人物相関図が有る。清衡が誰と戦ったのか、平泉文化創設まで何が有ったのか理解し易い。

 頼朝と源義経や武蔵坊弁慶は秀衡の頃になる。高校(生)時代に来た時にも思ったが、日本史の授業の補習をしているようなものだ。

 千田は前にここに来たのは小学校も高学年の頃、十年前に成ると言う。思わず十年前は二〇一五年と思いもした。今に二十一歳。三人が同じ学年なのだと変な事を考えもした。

 目の前の遺跡のジオラマ(復元模型)は無量光院に中尊寺、毛越寺、(たつ)谷窟(こくいわや)などを再現している。これから行く主な施設の位置をこれで説明出来た。

「実物を見ても、この位置取りは分からないからね。

 これだと平泉、一関地域の凡そが理解出来るね」

「前にも見ているんだけど、今見て、こんなにスケール感があったかなと思うよ」

「先に進めば、もっと今の世だなと思うよ。

 さっきに(先に)も言った平泉の世界遺産、金鶏山、無量光院(跡)、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡を、ドローンを使って4k(映像)で紹介しているんだ」

「今は何処に行っても映像が主体だね。パネル展示だけではスケールが分からない。

 映像も大概は町全体を先に持ってきて位置を紹介し、町の特徴を語り、それから時を遡りそこに見る歴史物の紹介、遺産の紹介となる。何処に行っても、ワンパターンだ。

 でも、それで事が足りているから良い。

 俺達の仕事は・・・」

 佐々木は何を言いたかったのか、俺達はまだ学生の身だ。それでもこの先の仕事の内容は内科でも外科でも想像が付く。何か悩みごとが有るのか。一瞬そう思ったけどその先を聞くのを()めた。

 館内を案内するに、前に来た時にこんなものが有ったかなと自分でも思いもする。荘園跡から発見された農機具等だと言う物と、奥州藤原氏の政庁だった柳之御所跡から出土した物だと遺物を紹介していた。

 家具に食器などの木製品に、中国産の白磁(はくじ)の壺や常滑(とこなめ)(愛知県)産の陶器、それに鍋釜金属製の物、漆器やガラスで成る製品等々は当時の生活様式を反映していると語る。藤原氏の権勢と交易の広さを思わせる遺物でもある。

 来るたびに展示品が増えているなと思うに、一九八〇年代から大規模な調査が繰り返し行われていると紹介されていた。

「戻ろう。今、十時十分に成る。

 中尊寺に行くけど、その前にもう一ヶ所寄り道するよ。世界遺産の中に入っていないけど高舘(たかだち)()経堂(けいどう)に寄ろう。車で二、三分だ。

(行くまでに)交差点が多いけど、ここまで来て芭蕉の有名な俳句が生まれた場所を知ら無いと言うのも後になって後悔する。

また、歴史好きには行かねばならない場所だろう」