頭の中で、短目(みじかめ)に話すと決めた。

「葛西清重が一番に手柄を立てたのは、さっき言った国見町の阿津賀(あつか)志山(しやま)での戦いだ。

 藤原方は阿津賀志山の(ふもと)から阿武隈川まで凡そ三キロに渡って堀を造った。阿武隈川の水を引いて頼朝軍の進路を防ぐ障害物とした。

 今も、現地にその遺構を見ることが出来るらしいよ。

 藤原軍の主力部隊はそこにあったらしいね。頼朝軍はそこを突破しないと先に進めない。勝利も無い。その時に活躍したのが葛西清重だね。

 現地の地理に詳しい村人を雇い、親衛隊の何人かに声を掛けた。一緒に、夜を徹して秘かに敵軍の背後の山に登った。

 夜明け近くだろうね、銅鑼(どら)など音の出る物を叩いてあたかも大群が押し寄せたかのように(よそお)って奇襲を掛けたらしい。

 挟み撃ちになったと思った藤原軍は混乱し、大軍が散り散りバラバラになったと吾妻鑑に在る。吾妻鑑は鎌倉時代の末期(まっき)に鎌倉幕府によって編纂された物らしい。

 幕府の都合の良いように書かれているとか色々批判はあるみたいだけど、頼朝軍はそれで先に進むことが出来た。

 主力の居ない平泉(ひらいずみ)はあっさりと陥落(かんらく)した。頼朝軍は今の盛岡市内を流れる厨川(くりやがわ)まで進軍した後、平泉(ひらいずみ)に戻る。

 頼朝は平泉で論功(ろんこう)行賞(こうしょう)を行っているんだね。それが葛西清重と平泉との間で関りが出来る最初だった。

 清重は検非違使(けびいし)の官領、つまり、平泉市内の取り締まり、今でいえば警察・司法の権限を頼朝から与えられた。また、平泉周辺の土地に成る胆沢(いさわ)(いわ)()に、今の宮城県側になる半島牡鹿(おしか)等数か所の土地を貰っている。

陸奥(むつの)(くに)の御家人が事は葛西清重が奉行すべしと人事権も与えられた。

 葛西清重、この時三十歳と記録されているよ」

「俺も一関市の中の町(大東町)に生まれ育っているけど、そんな話、聞いた事なかったな。

 平泉の世界遺産、藤原三代の話に、頼朝、義経、弁慶ばかりだ。

 葛西清重を知らない。調べた佐々木もだけど、口に出来る小野寺も凄いよ」

吾妻(あずま)(かがみ)って、聞いたことある?」

 千田も、佐々木も高校(生)時代の日本史の授業に出て来たと言う。一つ一つの事の次第を知らずとも、それを聞いて少しばかり話し易い。

「吾妻鑑に有るんだ。頼朝が鎌倉に帰り、葛西清重が平泉に止まって間もなくに、藤原氏の残党が一度、平泉(の町)を奪い返した。

 その時に、再度鎌倉から出陣して来たのが千葉(ちばの)(すけ)(つね)(たね)(たね)(まさ)親子と有ったね。葛西氏も千葉氏も昔の系図を調べて行くと、(もと)が同一人物に行きつく。

 つまり、葛西清重と千葉介常胤親子は従弟(いとこ)同士だった。それを知るに仙台葛西系図と盛岡葛西系図が代表的なものだ。

(参考図―盛岡葛西系図、筆者作成)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 奪い返しても葛西清重は親衛隊の一人だろ、その後も実際は鎌倉と平泉とを行ったり来たりだったらしい。

 土地を管理してくれる代官を恩の有る千葉一族から選んだ。岩手県南、宮城県北に千葉の姓を持つ方が今に多いのはその所為(せい)らしい」。

 頷きながら、佐々木が聞いたのは大槻家のお墓の事だった。

「小野寺は、前に来た時に大槻家の墓地を見たと言ったね。

 特別に印象の残ったものって有る?」

「上がり(かまち)で話した老人は、登り切ったら左に行きなさい、直ぐに分ると教えて呉れた。言葉通りだったよ。

 地面から一段高くした石で区切られていたけど、囲われてあるお墓(墓地)ではなかった。

 四、五メートル(はば)に奥行き三メートルもあったかな。何の木か分からないけど後ろにも横にも繁っていた。

 墓石が幾つか並んでいたね。最初に、大槻玄沢のお父さん(大槻(おおつき)(げん)(りょう))の墓石があるはずだと目を凝らして探した。

 法名が(きょ)(はく)(けん)から始まると手帳に控えて行ったんだ。小さな墓石にそれを見つけたけど、法名全体を読み取ることは出来なかったね。

(法名の)彫りが石の色と同化していたのと、墓石に着いた幾つもの(こけ)が(理解を)邪魔していた。古い物は風化に(さら)されていてなかなか読めないね。

(墓地の)正面にあった大きな墓石は読めたよ。「大槻専左衛門之墓」と有った。(後で)調べたけど、専左衛門さんは大槻家の六代目、大肝入りだね。

 大肝入りは複数の村を統括して藩の政策を周知したり、税収や農政の管理を行うなど地域のまとめ役だ。世襲の役人だ。俺達は大肝入りよりも、庄屋とか名主と聞いた方が理解し易いかもね。

 専左衛門さんは、家同士の交流があり、玄沢が江戸に出るまで何かと面倒を見た人物だった。また、あの養賢堂の学頭になった大槻(おおつき)平泉(へいせん)のお父さんでもある。

 専左衛門のお父さんが安左衛門さん、その安左衛門さんと大槻玄沢のお父さん(大槻(おおつき)(げん)(りょう))が兄弟だと言うことになる。

「良し。次、行こう。

 中尊寺だね」

 聞いて一応の区切りが付いたのだろうか。頷きながら佐々木が出発を促した。腕時計を見ると、まだ九時十分を過ぎたばかりだ。三人が三人、自販機で買ったお茶で喉を潤してエンジンを掛けた。