二十七 工藤源四郎の死
師走の声を聞く早々、湯島の聖堂(昌平黌の前身)の最高責任者を務め、越中侯を支えもした柴野栗山先生(寛政の三博士の一人)がお亡くなりになったとの報だ。お世話になりもしたゆえ葬儀の段取りを確認せずばなるまい。先生(杉田玄白)が所に行けば、直ぐに分りもしよう。
坊主も走り出す年の暮れとても、死者は要らぬ。借金に追われる者、取り立てに走る者とて居ようが、死ぬよりその方がまだマシか。吾はオロシヤが事で毎日が(環海異聞の)編集に追われる始末だ(官途要録)
タホにお茶を淹れ直すよう頼んで一息入れた。文机の上も身の周りも紙の散らかり放題に有る。
「お茶を淹れて参りました。
何処にどのような資料が有るのか、これでお分かりになるのですか?」
「心配せずとも良い。吾が分かれば良いのだ」
「そうで御座いますね。
オホホホ、散らかっていてもお手を出さずに済みます」
足下に気を付けながら僅かばかりの紙片を片付け、持ってきた湯飲みを文机の端に置く妻だ。
「旦那様、奥様、工藤様のお使いだと言う者が来ました」
「散らかっているがの、上がって貰え」
者と言うからに誰が来たのか想像が付く。横着して、立つよりも部屋に来て貰えとお京の声に応じた。
見かけぬ者だ。思いもしていなかった応対だったのだろう、畳一面に広がる紙片に驚き、足の踏み場を確認しながら妻が用意した座布団の上に尻端折りの身を正して正座した。それからに一礼して、源四郎(工藤源四郎)が所の使用人、久助だと名乗る。
それらが事よりも、次に続いた言葉に絶句した。
「何故にそうなった。如何して」
返事よりも先に嗚咽し出した白髪混じりの久助だ。
吾と同じ五十(歳)路にも成ろうか。主人よりも年嵩なのは間違いない。こうなると待つしかない。久助は、顔を手ぬぐいで拭ってから語り出した。
「旦那様は、大分にお疲れの様子に御座いました。
堀田様のお嬢様が重病だとて何日か続いて泊まり込み、診療にも看病にも当たっていたのです。
それがやっとにお屋敷に帰って来れたに、今度は普段のお付き合いから如何しても行かなければならない患家だと、己が風邪を引いているにまたまた(診療に)お出かけでした。時には戻って来ませんでした。(患家を)泊まり歩いて看護もしていたのです。
それが仇になりました。ご自身の流行り風邪が悪化し、お戻りになったその日に床に横になりました。熱が下がらず、それっきり起き上がれ無くなってしまったのです。
吾は若いから大丈夫だ大丈夫だと旦那様ご自身が言いながら、とうとう朝に冷たく成っていたのでした。
奥様も、お側に居ながら朝に知ったと只々涙です」
「桑原家に誰ぞ知らせに走ったかの?」
頭の中で源四郎の姻戚関係をなぞった。源四郎の母上は先代、桑原隆朝殿(桑原隆朝如璋)の御息女であり、工藤様(工藤平助)の奥方だ。今の隆朝(桑原隆朝純(純明)殿の姉上、遊殿だ。また、自身の姉(工藤あや子)は只野様が所(只野伊賀行義。仙台藩着座(家老)の家柄で時に江戸番頭をも務めた)に後妻に入ったのだ。
只野様は今も上屋敷の中に在るか御国許(仙台)か。すっかりご無沙汰している事が悔やまれる。(源四郎が)最も頼りにしていた姉は御国許(仙台)のハズだ。
(源四郎は工藤あや子の再婚に付き添い、かつて仙台に行っている。あや子自身はその後の生涯、二度と江戸に戻ることは無かった。
また、あや子が仙台から「南総里見八犬伝」等を書いた曲亭馬琴(滝沢馬琴)に自分の書いた作品の論評を頼むなどは、源四郎が死んだ後の事である。
工藤あや子は女流作家の走りとも称される「只野真葛」である。
文化四年十二月六日(一八〇八年一月三日)、工藤源四郎歿。享年三十四歳。
なお、吉川弘文館、人物叢書「只野間葛」、関民子著が工藤家を知るに大いに参考になるー筆者)
久助殿をお見送りし、お茶を淹れ直してくれるようにとタホに頼んだ。
工藤家を潰してはならぬ。吾が江戸における父とも思って来た工藤様(工藤平助)だ。
(吾の)三叉塾入門(杉田玄白の私塾)も仙台藩に移籍が事も、そしてまた、長崎遊学が事も何かと世話をして呉れたは工藤様だ、源四郎に後を継ぐ子が無けれども、工藤家の存続を第一に考えねばならぬ。
桑原様(桑原隆朝純(純明)と一緒に考えねばなるまい。時間がない。