二十五 東海先生(衣関甫軒)が訃報
十二月四日が西洋で言う所の元旦だ。玄真(宇田川榛斎)と伯元(杉田伯元)、それと玄幹とで(吾家で)朝からオランダ正月の打ち合わせをしているに、順庵殿(衣関順庵)が使いだという者が来た。
座敷に上がって貰うと、使者は、今朝(十五日の明け方)に東海先生(衣関甫軒)がお亡くなりになりましと告げた。思わず、伯元の顔を見た。
葬儀の日取りがはっきりしたらまた連絡を頼むと言い、使者が帰ると、通夜に有ろと無なかろうと今日の夕方には本郷(現代の文京区小石川)のご自宅に四人揃ってお焼香に伺おうと決めた。そのためには八つ半(午後三時)までにはオランダ正月の段取りを決め終えようようと話し合った。
今年も黙とうの時間を設定することになった。先生(衣関甫軒)も山村(山村昌永、才助)も思い出されるが、ここ数年、蘭学の上にも西洋の医学医術の上にも惜しい人材が黄泉の世界に旅立つなと思いもする。
一旦屋敷に戻る伯元なれば先生(杉田玄白)にも伝わる。あるいは先に使者が行っても居ようか。先生とて色々な思い出が有ろう。
玄真は、再集合は七つ半(午後五時)この場所と確認のために口にし、吾は、暗くもなって居れば十分に気を付けて来て下されと二人に言った。
暮れるのも早くなった。夕七つ(午後四時)ともなると周りは薄暗い。一人書斎に入ると、故郷に在った頃が思い出された。
建部先生(建部清庵二代目、由正)の使いとはいえ、江戸と一関の間を行き来する精悍な顔をした先生(衣関甫軒、号は東海)だ。
一関に帰ってくる度に、どんなお話が聞けるのかと何時もワクワクした。その度に江戸に行きたい、江戸に出たいと何度思った事か。
そうか、今度のオランダ正月の席で、伯元から改めて玄白先生と清庵先生との手紙のやり取りの頃を語ってもらおうか、吾とても補足して語ることも出来よう。和蘭医事問答の中身のあれこれが再度話題になるだろう。
皆さんが蘭学を志した、西洋の医学医術を学ぼうとした初心に返ることも出来ようか。今の世の蘭学隆盛の前にあった昔の事だなと想いもする。
(文化四年十一月十五日(一八〇七年十二月十三日)、衣関甫軒没、享年六十歳。橋本流眼科医の渡辺立軒に学び、解剖学を基礎にしたオランダ眼科を採り入れている。
衣関父子に成る「眼目明辨」は没後の文化八年(一八一一年)に発刊された)
[付記]:お読み下さっている皆様、覚えているでしょうか。4月10日に安曇野から出張して来た倅(二女の娘婿)にブログランキング参加と、出版費用の足しになればとその手続きもしますとお伝えしましたが、その際に、倅曰く「大槻玄沢って、何をした人?」
ショックでした。小生の作品を読んでいてくれているものと、頭から決め込んでいました。倅曰く、「長すぎて、読んで下さっている人の中にもそう思って居る人がいるんじゃない?」
ムッとした小生でしたけれども、冷静に考えて見ると、自分自身、令和3年4月から書き出してこんなにも長くなる偉人小説になるとは思っても居ませんでした。
多事多難の第28章の後、第29章に病の床から、そして最終章と、自分の作成した粗々のレジメから己で判断していたのでしたが、倅の一言と、それに加担する老妻の言葉から反省し、今、第29章に東北大学医学部に学ぶ現代の学生生3人を登場させて、大槻玄沢その人の功績、活躍と人生をなぞる場面の執筆に取り組んでいます。1章追加です。
仙台藩養賢堂(学問所)に東北大学医学部門の前身となる医学部門の設置は、西洋医学の発展を確実なものにした物でした。また、蘭学科の設置は現代で言う外国語科の設置に成るのではないでしょうか。またまた「小説・大槻玄沢所抄」が長くなりますけれども、小生自身は、最早残された人生のライフワークと心に決めております。
お陰様で、月曜日から金曜日まで投稿する殆どはベストランキング入りしており生き甲斐を感じております。
それにしても、世の中は年金生活者にとって住みにくい物価高になった物ですね。幾分安くなったとはいえ価格が高止まりの米、碌にリンゴも、ミカンも、イチゴも、ブドウも、サクランボも口に出来ない現状って何だ。政治家は庶民の生活ぶりを分かっているのかと声に出して言いたくもなります。
腹の足しにはならないけれど、プランターで採算の取れる家庭菜園に楽しむ一方、小さな庭の活用方法を工夫しながら3年前に試しに植えた葡萄(巨峰)と、さくらんぼ(佐藤錦)が、今年に実を付けています。ビックリしました。口に出来るほどに成るかどうかはともかく、嬉しい限りです。近況まで。


