十八 オロシヤの襲撃

「大槻様は御出でで御座いますか」

 聞き慣れぬ声であったが、ここに居ると振り返り言えば、若い茶坊主だ。見るからに身を固くして、堀田様がお呼びだと言う。

先日に環海異聞のお許しも得たれば、その進捗状況でも聞こうとの事か。それにはまだ早いがと思いしに、お部屋に顔を出した。

誘われるままに、お側近くに席を取った。

「仕方のない事でもあるがの」

 侯が最初の言葉に、何があったと咄嗟に身構える気にもなった。

「船も焼き払われてこのひと冬、松前藩にさえも伝えられなかったと言う事じゃ。

 実はの。去年の秋(文化三年九月十一日と十三日(一八〇六年十月二十二日,、二十四日)にオロシヤ兵が(から)(ふと)の会所を襲撃した(文化の露寇(ろこう))と言うのじゃ。

 銃で威嚇しながら小舟数艘で三十人もの兵が襲い、会所に有った米や雑貨を略奪し、火を放ち、果ては周りの民家も襲い、奪い、焼き、そして船にも火を放ち去ったと今になっての情報じゃ。

 会所の番人四人が連れ去られた、そのまま本船が去ったとあるから四人の消息が今も分からないらしい。

 間宮(まみや)林蔵(りんぞう)とか聞く者もその騒ぎに巻き込まれて()ったらしい。間宮は御上(幕府)の御庭番(隠密、密偵)よ。

(天文方の)高橋(高橋景(たかはしかげ)(やす))や(はざま)殿(間重富)に星を見て己の位置、船の位置を知る事や、伊能殿(伊能(いのう)(ただ)(たか))に測量技術を習っていたと聞く。

(間宮林蔵は文化五年四月(一八〇八年五月)以降、二度に渡って樺太を探検し、樺太はオロシヤ本土に続く半島ではなく、中国、黒竜江省の河口の対岸に位置する島であることを幕府に報告した。後にシーボルトが己の作成した日本地図に「マミアノセト」としてヨーロッパに紹介し、間宮海峡と呼ばれるようになった)

「オロシヤが暴挙は、初耳に御座います」

「船を焼かれた故、連絡も出来なかった、そのまま(ひと)(ふゆ)を越したと言う事じゃろ」

 それで吾とて納得も行く。頷いた。

「それがの。この四月、五月にもオロシヤ船が、今度はネモロ(根室)の先、エトロフ島に在る紗那(しゃな)の会所(幕府設置の運上屋)を襲ったとの事よ。

 米や塩を略奪し火を放った、番人の何人かがまた連れ去られたとの報告じゃ。

 東蝦夷地(浦川、現、浦河町から知床半島)は暫く幕府が管理すると松前(藩)を追い出しても居たでの。エトロフ(島)も真ん中辺りの紗那と聞く村に会所を置き、弘前(藩)と南部(藩)に警護させていた。

何か不都合が生じれば箱館に置く御上の者が事の処理を行う事にしておった。急の知らせに、箱館に常駐する者も応援に回ったらしい。

(幕府は、享和二年(一八〇二年)に箱館奉行を置いたが、文化四年二月二十二日(一八〇七年三月三十日)松前に奉行所を移している。)

 だが、オロシヤと話し合いが出来る状況に無かったらしく、襲撃を受け、応援に行った者にも負傷者が大分に出たと報告にある」

(松前奉行所配下の通訳官、川口(かわぐち)(よう)(すけ)が、話し合いの場を設けようと白旗を掲げオロシヤ側の小舟に向かって合図した。だがその小舟は上陸早々襲い掛かり銃弾が川口陽介の大腿部を貫通したと記録されている)

「・・・・。」

「オロシヤの圧倒的な鉄砲、火力の前に恐れをなしたのかの。

 各藩の支配調整役にも在った指揮官戸田(戸田(とだ)(また)太夫(だゆう))は紗那(しゃな)を捨て隣の留別(るべつ)という村に撤退したとの事だ。

 戸田はその野営地で自害したとの報告だ。徹底抗戦を主張する者も居たようじゃで、(戸田は)自責の念に駆られたのじゃろ。

(当時、紗那に滞在して徹底抗戦を主張した者に間宮林蔵、久保田(くぼた)(けん)(たつ)(医者)が居た)

レザノフ追い出しの一件もあったれば、オロシヤの報復、襲撃がいずれ有るかと予想していたものの、現実となるとの・・・。御上の中でも、それ見た事かと風見鶏がピーチク、パーチク言い出した。

 急な話での、北にある弘前、南部、秋田、仙台、会津の各藩に出陣(・・)を促す事になった。

 今に誰をその指揮官に置くか。陣頭指揮を誰に任せるかと吾の名が挙がって居る。否、決定じゃろ。

 前置きが長くもなったが、其方を呼びもしたはオロシヤの軍事力を少しでも耳にしたいと思っての事じゃ」

(幕府は七年間の約束で文化四年(一八〇七年)に松前藩を武蔵国埼玉郡に転封した(上知令。五千石を付与)。国後島や択捉島、千島列島等の東蝦夷地を自らの管理下に置き、その後、日本海側の海岸や樺太島等の西蝦夷地までも加え蝦夷地全域を幕府の管理下(直轄領)に置いて防衛を図ることとした。

 なお、松前藩を転封してまで得た東蝦夷地は安政六年(一八五九年)に至るまで幕府の手にあった)