十五 家督相続

 何とか幕の内までに先生が宅の門松を見ることが出来た。今日に家に帰れば七草粥が待っていると吾を送り出した愚妻の言葉だった。

 案内されるままにお部屋を覗いた。

 白髪も増え薄くもなったお(つむ)だが、血色の良い先生(杉田玄白)のお顔を見れば安堵の気が湧く。

正月なれば酒を出すかとおっしゃられたが、胃の疲れもあればと、お茶を所望した。

 それからに、思わぬ事を耳にした。

「吾も(とし)をとったでの。今年に七十五(歳)にもなる。

 正月早々、家督を伯元に譲りたい、お認め下さるようにと願い出た」

 思わず先生のお顔を改めて見直した。穏やかなその顔には肩の荷を下ろしたとある。そのような御年齢(おとし)にもなったかと、思わず吾の年齢(とし)さえも数えた。

「月に三日、四日の当直も身に堪えるようになったでの。

 主(藩候)には死ぬまで勤めようと有難いお言葉を頂きもした。

だが、勤めが出来ぬで俸禄を頂くわけにはまいらぬ」

 伯元殿を見れば、黙って頷きもする。

「(小浜)藩もお許し下さるだろう。

 俸禄が如何様になろうと構いませんと申し上げた上で、伯元を奥医師にして下さるようにと御願いもして来た。

 これからは、吾の医術を真に(こいねが)う方の所にのみ出かけもしよう。

(患者が)長屋暮らしに有れば、吾とて余計な挨拶も要らずば肩肘張らずにも済む。

 目が不自由にもなって来たれば好きな絵を描くとてままならぬが、日録を書くのを一層の楽しみにしようと思ってもいる。(

(書き)控え置きたいと思っても、その時間(とき)とてなかなかに無かったでの。

 書きながらに己を見つめ直す事も良かろう。

 この年齢(とし)にして市井(しせい)の暮らしが一番と思いもする」

(杉田玄白は、酒井(さかい)忠用(ただもち)(元文5年~宝暦七年)、(ただ)(かつ)(~宝暦十二年)、(ただし)(つら)(~文化三年)、(ただ)(ゆき)(~文政十一年)と、四代の小浜藩主に仕えた)

「先生が功績は、語り様がないほどに御座います。

 越中侯(松平定信)の世に洋書の輸入が一層緩和されたとはいえ、今に蘭学の世を見るようになったのもこの日本で西洋医学が進んだのも、元はと言えば先生がお陰で御座います。

(今後は)健康により留意しながらも、御達者で、ゆっくりとした人生をお過ごし下され」

 一関から江戸に来たばかりの伯元と吾の姿、格好が思い出される。(先生に)最初に入門を断られもした時は本当に途方に呉れもした。あれから三十年にもなるか。吾とて五十路(いそじ)、伯元殿とて四十(歳)も(なか)ばだ。

 伯元殿は、主(藩主)の御健康維持がためにこれまでも江戸と小浜との間を何度か行き来して居る。また、先生(杉田玄白)と建部清庵先生との間における往復書簡を以って「和蘭医事問答」を編集し、塾(三叉塾)に通う者の育成に貢献するなど西洋医学の発展に貢献しても居るのだ。杉田家の後を継ぐと言うだけでなく、小浜藩の奥医師就任は間違いなかろう。

(文化四年正月十一日(一八〇七年二月十七日)、杉田伯元、小浜藩奥医師となる)

 帰りの道すがら、またまた先生には教えられた気がしてきた。先生は、かつては小浜藩から頂く己の俸禄を()いても倅、甫仙(ほせん)殿(実子、杉田(すぎた)(りゅう)(けい))の独立を支援した。今度に、家督相続の有り様を教えている気がしてならぬ。

 桑原殿(桑原隆朝純(純明))が倅(桑原如則(ゆきのり))も玄幹(大槻(げん)(かん))も、親が元気なれば家督相続は遙か先の事にもなる。それまで部屋住みの身にあって、見習い医員のままだ。

 桑原殿も吾も(藩の)お許しを得て己の俸禄の一部を倅の俸禄としているが、何時に何が有るか分らぬ。吾もまた家督相続が事を考えねばならぬ気がする。

 藩に家督相続が()()と認められるには、それまでに何をしたか、実績に何があるか、それが肝要なのだ。また、去る親は出処進退を潔くせずばなるまい

 

[付記]:先週に引き続き、今日は「望郷」の「あらすじ」を投稿させていただきます。

 大きな変化に気付きました。以前に、小生の小説を読んで下さっている人の年齢層が多くは70歳以上である。今の子供達に、自分の住む郷土にも誇る事の出来る歴史上の人物が居たんだよと知ってほしくて執筆しているのにショックです、とこのブログに書きました。その所為か如何か分りませんけれども、今に、70歳以上層に続き、30代の読者が増えているのです。

 読んで下さる時間帯も、以前は朝6時から12時までが大半だったのに、今は二番目に午後の10時から11時と変化しているのです。一日の仕事の後にお読み下さっているのでしょう。嬉しくもあります。

 

    下記に、当時投稿した「望郷の後書」です。また、「望郷のあらすじ」が見当たらず、改めて作成して見ました。後書きを代わりにして、作っていなかったかも…。

{後書}(令和五年八月十八日)

「望郷」は小生の最初で最後の私小説です。小説ですので虚構も混じります。

 母の十三回忌と智兄(仮名)の三回忌の法事を一緒に済ませた後に、二人の事を何か書き残されねばとの思いが、ふつふつと湧いてきて書いた物です。

 法事を終えて、長く自分の心にあった重荷が溶けたような気がしたからです。ちょうど、処女作、サイカチ物語を書き終えたところでした。

 皆さんの中にも、故郷に良い思い出ばかりではない方もおられるかと思います。小生は団塊の世代で高度経済成長、進学熱の高まりとともに大学受験戦争の激化、灰色の青春と揶揄される時代に育ちました。

 兄の精神障害の発症は小生が高一年の時でした。また兄の自殺未遂も高二年になる時でした。貧困とその家庭事情等に小生自身が押しつぶされそうな気持で、一刻も早く田舎から逃げ出したい気持ちでいた高校生活でした。

そして、大学受験は二度失敗。落第生です。高校生の初任給が月に一万八千円の時代に、月二万円の日本育英会の奨学金が約束されていたのですが、その資格を喪失しました。

 高校時代の恩師から、何をやっているんだ、お前のために国が金を出してくれると言ってるんだ、欲張らずに、入学できるところは一杯あったろう、とお叱りもいただきました。

 十九、二十歳でどうしたらいいかも分からず、当時住んでいた国分寺市(東京都)の本屋をたまたまに覗いて、知った詩が室生犀星の詩集でした。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの

 そして悲しくうたうもの

 よしやうらぶれて異土(いど)乞食(かたい)となるとても

 帰るところにあるまじや

 ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

 そのこころもて

 遠き都にかへらばや

 遠き都にかへらばや

 

 何度復唱したでしょうか。そのことは、三十七年余の公務員生活を送りながら、主に福祉医療の仕事に従事していながらも変わりません。「よしや うらぶれて異土(いど)乞食(かたい)となるとても 帰るところにあるまじや」が、ずーっと心の支えでした。

 定年間近に母を引き取り、高校時代からも凡そ半世紀後に兄を身近に引き取り、そして二人の遺骨を田舎の墓地に埋葬して法事をして、初めて高校時代からのうつうつとした気持ちから解放された気がしました。

 先日に、中学時代からの友から、田舎に帰ってきたよ、野焼き祭りも見ずに帰ってきた、誰々が亡くなっていたとよ連絡が来ました。俺も今年は五月に行ってきた、今、「望郷」をブログに投稿している、田舎の事も、かつて還暦祝いを一緒にしたかん(・・)ぽの(・・)宿()の場面も書いてあるよと言いながら、久美子(仮名)姉の三回忌を思い出しました。

 皆様にお断りしてブログの投稿をお休みさせていただいた去る五月末の法事がその三回忌でした。来年には長兄孝一(仮名)の三回忌です。

 この春には、二年前に定年になった弟、信夫(仮名)から再就職の口が決まったと連絡が来ました。また、妹の義子(仮名)は保健所でアルバイトをしながら、今年の夏も市民農園が当たった(耕地の権利)、ナス、キュウリ、トマト、万願寺等が収穫できたと郵便パックで野菜を送ってきました。

 友人知人や家族の生死を思いながら、今、この()()になっても、人生って何なんだろう・・・と、答えの出ないままに考えることが多くなりました。

 この一年、二年内に小説・大槻玄沢を書き上げねば、大槻玄沢没後二百年は2027年。NHKの大河ドラマにできないぞと勝手に思い、また、後五年、八十(歳)までは生きねば、家のローンを残して死ねない、妻に借金を残せないなどと、夢想と小市民的思いに捉われながら机に向かっています。

 とてつもない暑い夏です。小生のブログ投稿にさして関心の無いような妻ですが、点いたりつかなかったりしていた小生の部屋のエアコンを買い替えてくれました。

 この作品、「望郷」も日に百を超えるアクセス数がありました。末筆ではございますけども、お読み下さっている皆様に心から感謝申し上げますと共に、改めてご健勝をお祈りいたします。

 次回作は、「青春賦」を予定しております。サイカチ物語の後書に書かせていただいたとおり、医者になった及川俊明が同僚を前に青春の一ページ、医者になった動機等を語ります。九月一日からの投稿とさせてください。

また、その間に、短編、「2007年、元朝参り」を来週、二十一日から投稿させて下さい。

 

「望郷」あらすじ

 年老いた母の介護問題で故郷に向かう自分である。()()の要請を受けて、所沢(埼玉県)から高校卒業までを暮らした一関(岩手県)の生家に向かうはここ一年で四度目に成る。

 市営住宅に独り住む(あね)姉は、時折生家に戻って、目にする母の現状を私に訴えるのだった。最期はいつも、誰か田舎に帰って来て母の面倒を見てよと言う。

だが、母だけの問題ではなかった、母は父が亡くなった後も凡そ五十年、障害者手帳を持つ私と三つ違いの兄(三男)の面倒をズーッと見て来たのだ。

 長姉は、母はその兄の面倒を見切れなくなった。毎日の食事も用意出来なくもなって居れば、自分自身が脳梗塞で倒れた後、トイレに間に合わなくもなっている、もう八十八(歳)にもなるんだよ、等と訴える。

 福祉事業に携わっても居る自分であるが、今回も長姉や母から現状だけを聴き、解決策を先送りするだけだった。

東村山(東京都東村山市)にある職場に戻れば、施設入所者に係る問題が直ぐに待ち構えていた。中学を卒業して直ぐに都会に出て働き、福祉事務所を通して今にこの施設に入居して来た一人が故郷福島にある、お墓参りをしたいと言う。お墓参りの付き添いはい介護保険制度の認める介護報酬の対象とならない。

 夏、今年になって二度目の帰郷でもある。叔父に頼んであった屋内簡易水洗トイレが設置されているかと、母と兄の今の生活状況をみるための帰省だった。丁度に、夏祭りの藤沢野焼き祭りが開催される。久しぶりに母や姉と一緒に堪能した。

 秋になると、長姉が、弟(自分にとって兄)の面倒を見るから、寒い時期だけでも母を引き取れと電話を寄越した。春に田舎に戻せば良いとの話だ。私には、母にそれを話しかけるタイミングが必要だった。

 母は上京した、母が最初に住まいに選んだのは高島平(東京都板橋区)に住む妹の所だった。独身で勤めの有る妹だが、母が都会生活に成れるにいいだろうと私は了解した。

 年を越し、凡そ四カ月。年度末(三月)を迎えた妹から、仕事が忙しくて母の夕食等の準備も出来ない、今月だけでも母を預かってもらえないかと電話が来た。

 母をたらい回しに出来ないと妻に再度相談し、母を自分の所に引き取った。

父のお墓参りをしたいと言う母に付き添って一度帰郷したが、今度は田舎に残るとは言わなかった。帰りの新幹線の中で、母は自分の入るお墓を心配する。

 再度脳梗塞を発症した母は、凡そ二年、特別養護老人ホームに世話になり死を迎えた。遺骨になって故郷に帰った。享年九十二歳だった。

 特別養護老人ホームに世話になるようになってもそのままにしておいた部屋だったが、母が死んで半年に成る。部屋を片付けるに見た物は・・・・。

 

 今頃になって、多事多難・19がダブって連日投稿したことに気付きました。一方を削除します。