「足を崩されよ。正座のままでは草臥れもする。胡坐が良い」
車座になったは良いが正座に在る若い二人に声を掛けた。自ずと桑原殿も膝を崩した。
「吾は、補遺の稿、巻の一には天明六年秋八月に成ったとも聞く撰者無姓名の「赤人問答」を記しました。
問答が形にしてオロシヤを知ることが出来るようにしたのです。耶蘇を宗旨とする国であること、エカテリーナ女王の後に孫のアレクサンドル(一世)が現在の王様に在ること、ヨーロッパと同様の暦をもって日月を数えていると記すに始まり、オロシヤが領土をまずは紹介しております。
領土は東に海を隔てた蝦夷の上、カムチャッカ半島、その左に本国オホーツク、ヤクーツク。そして、南に志那(唐。現在の中国)と度々戦に及べども清朝の康熙帝二十八年(西暦一七〇一年)の時、和睦してアルグン川を以って両国の境としていると記しております。
(補遺にはアルゴン川と有る。同川はモンゴル自治区湖沼・湿原に発し、内陸の小河川等を集めながら北東に向かいやがてバイカル湖の東端でシルカ川と合流する。その先はアムール川(中国、黒竜江)と名を変えて流れ、ハバロフスク付近でロシヤ領内に入りやがてオホーツク海に注ぐ)
オロシヤはヤクーツクから西にヨーロッパの国々に至るまで実に広大な土地に有ります。ヤクーツクからイルクーツクまでも凡そ四六〇里と聞きました。
イルクーツクは漂流民が凡そ八年暮らした所で、冬には近隣の川という川が凍り付くシベリ(シベリヤ)の中に在ります。
オロシヤの壱里はこの日本の里の四が一(四分の一)と聞きもしていますから、彼国が里で言えばヤクーツクからイルクーツクまでも凡そ一八四〇里も有ると言うことになりましょう。
そのイルクーツクから彼国の計算で凡そ四千里も先、遙か西の果てに旧都モスクワが有るのです。そこから更に凡そ七百露里も北上して新都サンペテルブルグ、一名「ペテルブルグ」に至るのです。オロシヤが如何に広大な土地に有るか想像がつきましょう。
陸路の行程(距離)を知るに、海上の行程(海路)もまたどの様に量るのかと尋ねたところ、船の上から細き綱を流して綱丈がどれ程に流れたかで凡その距離を知り、砂時計と見合わせて船が一時(刻)何里走るかと計算したというのです。
それを聞いたのは、蝦夷地周辺の島々に今にオロシヤが出没している、島の名を勝手に己等の呼び名に変えていると耳にした故で御座います。
西洋の書の教える所と照らし合わせながら本蝦夷地ノッカマフ(納沙布)よりクナジリ(国後)へ海上、日本の里にして十六里、クナジリ(国後)よりエトロフ(択捉)へ海上、日本の里にして五里。エトロフよりウルップ(得撫)へ海上、(日本の里にして)十八里程などと凡そに距離を知ることが出来ました。
今に手元に無ければ外の島と距離を詳しくも語れませんが、補遺には己で整理出来た島々の名とそこまでの距離を書き表して御座います。
漂流民は、カムチャッカ半島から蝦夷地までの間に二十一の島が在る、そのうちカムチャッカ(半島)から十八番目の島までがオロシヤの物だとレザノフやオロシヤの船員に教えられたとの事でした。
しかし、御上の命を受けた近藤重蔵殿の蝦夷地探検が事により、既に寛政十年の夏(七月)でしたか、あの択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱が建てられてあるのです」
「うん。江戸市中にてもそれが話題にもなったでの。
凡そ七、八年も前に成るか、二十六、七(歳)の若者が蝦夷地を探検した。
島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てたと瓦版にも有りもした。
(吾とて)知りもしておる」
桑原殿の言うに倅殿も頷いたが、見れば玄幹は首を横に振る。玄幹の年齢を思いもした。
「吾が聞く所では、近藤殿はあの越中侯(白河侯、,松平定信)が始めた御聖堂(昌平坂学問所)の学問吟味に優秀な成績で合格した方に御座います。
若くして任用叶って、かつては長崎奉行所に出役し、江戸に戻って間もなくに今度は蝦夷地に派遣されても居るのです。
近藤殿は、己が書きもした「辺要分界図考」で昔より蝦夷地に三十六の島有りと紹介し、各島の日本古来の名も記しているのです。
オロシヤが二十一(の島)有りと語る是非は兎も角に、十八(島)までが呼び名を勝手に変えられるなど(オロシヤに)侵食せられしは残念とも言うべきでしょう」
(北辺探事補遺、巻の一に収められている「赤人問答」には、昔より奥蝦夷三十六島ありと言うはこの島のことなるべく、カムシャッケ(カムチャッカ)」迄は全く日本属島と見ゆるに彼より十八目まで侵食せられしは遺恨とも言うべし、とある)
今でこそ蝦夷の地は何処に有るかと言えば、本邦から海を渡って松前(藩)の管理する所、更にはその先の北の地を指すと江戸市民の大方も知る所で御座いますが、大昔は仙台領の多賀城が砦(多賀城址)より北、一関藩も南部藩も弘前藩も蝦夷の地と呼ばれていたのです。
手前味噌に成りますが、今のオロシヤを理解するに、また北国の島々を知るに吾の書きし(北辺探事の)補遺こそ、公家(御上)の備え置くべき一つとも思います」
(同補遺、巻の一には「公家の一備要を急速にせんと欲して也」とある)