十三 暮の便りー儀兵衛死す

 昌永、右仲と吾とが志村殿との惜別の宴を開いて二月(ふたつき)近くにも成るか。日本橋の小料理屋で夫々(それぞれ)が思い思いに一緒に仕事をした凡そ九カ月を振り返り、語った。

 惜別の席とはいえ涙はなかった。酒肴を楽しみながら皆々の口が一致したのは、この期間程一つ仕事に集中したのは初めての事だという感想だった。漂流民がお陰で吾等も世界を一周しましたなと、それもまた一致した。

 志村殿は仙台での生活が落ち着きもしたろうか、妻子との再会はさぞかし嬉しかったろう。吾は未だに漂流民から聞きし事どもから離れられないが、堀田様からお許しが出たれば世間に公表する書の有り様を検討するにも、一層、熱が入る。

 とは言え、右仲が描きもして呉れた絵図の取り扱いを思案するに、己の弱い胃臓は()を上げもする。しくしく(・・・・)痛み出すのだ。

御屋形様への奏上が事(北辺探事)の補足を思案するに、絵図もまた纏めて献上するは世間に公表する書の完成に委ねようかと思いもする。となれば、補遺の稿と世間に公表する書との間に日を置かずに献上せずばなるまい。短い期間に己一人でそれが出来ようか。思案するだけで鳩尾(みぞおち)が辺りを(さす)るようにもなる。

 また、オランダ正月の準備も必要だ。オランダ正月が終われば年の残りも少ない。例年そう思いもしているが、この時期になると秋の実りは如何(どう)だったか、大根、白菜漬等の作業は終えたか、冬山はもう雪を被ったかと田舎を思う。

 代わりの湯飲みをお盆に顔を見せたタホ(妻)だ。文が届きましたと言う。見れば志村殿が便りだ。

 文は時候の挨拶と惜別が宴の感謝の後に、漂流民の消息を伝えていた。何と!、儀兵衛が死んだと有る。故郷に戻ったと言う安堵から長い間の心労が一遍に噴き出したのでしょうとも有る。

 思うに、志村殿は儀兵衛殿が身に起きた悲劇が事を知らないのであろう。吾は思わず文を前にして合掌した。

 夕餉が済んだら、改めて仏壇に燈明を()けよう。

(曹洞宗東渓山観音寺に儀平(儀兵衛)眠る。文化三年九月三日(一八〇六年十月十四日)没。法名は長流来見信士、享年四十五歳)

 

[付記]:小生のブログ投稿は祭日に当たろうと、原則、月~金曜日としております。ランキング参戦以来、自分の小説がどういう評価を得ているのかと気になりだしました。他人様のランキング順位にも、フオロワー数にも目を遣ることなどなかった小生ですが、己の事ゆえ気になります。 

 お陰様で、先週に投稿した作品は全て人気ブログ記事に有るとの連絡通知に驚きもし、余計、創作意欲が湧いてきます。良い、プラスの面ですよね。

 しかし、文献調査に四苦八苦している自分で、マイペースで楽しみながら書こう、次の世代を担う子供達のために一つの歴史を知ってもらおうとの原点に戻ると、不安に感じるところも有ります。文献調査が今まで以上に重要になっているなと実感しております。

 今に投稿している「小説・大槻玄沢抄」は、文化五年、昌平黌の学頭、林述齋等からの宿題を、大槻玄沢の「鯨漁叢話」等を参考にして成し遂げた大槻平泉(大槻民治、「鯨史稿」)が仙台に旅立つ場面を執筆しています。

 この後の文化六年に、藩主伊達周宗の急逝、その死の3年間秘匿(仙台市史にも書かれていない)、仙台藩改易の危機。そこにおける藩医として重用されていた桑原隆朝と大槻玄沢の関わり、堀田正敦の関り等々、また、平泉の仙台藩・養賢堂の再編と大槻玄沢の関り等々調べなければならないことばかり。大槻玄沢を書くにこんなにも大変になるとは思っても居なかったことです。、多くを知り、活字にするのはごく一部。

 公表できると自分で納得できるところまで投稿させていただき、間も無く、5,6カ月ほどお休みを頂こう、文献調査と執筆に専念しようと思案しています。ご理解の程、よろしくお願い致します。

 その時には改めてこの紙上をお借りしてご連絡させていただきます。