十二 良くも悪くも
八月十一日(文化三年。一八〇六年九月二十二日)木挽町四丁目采女原、御旗本衆、古坂政次郎殿借地にやっとに己の新居の完成を見た。(官途要録)
春の大火もまた思い出されるが、家族と使用人の笑顔を見れば同じ屋根の下に生活出来ることの喜びを一層思いもする。
皆様からの思いもかけぬ祝辞と御届け物等に感謝すれども、いやはや、年齢が行ってからの引っ越し程容易ならざる物は無い。何を片付けるにも、翌日には足腰に筋肉の痛みを覚える。身体を鍛えても居ない日頃の不精を反省せずばなるまい。
手伝いにも来た民治は、昌平黌の寮から仙台藩の藩邸に居を移すことになった、一層のこと学問所の御用と藩の御用との二足草鞋に精を出さねばならぬと語った。
苦労も多いが、人間、相手にされる、期待されるうちが花よと励ましもしたが、己の事になるとそうとばかり言ってはおれぬ。
来た志村殿(志村弘強)から、この秋に仙台に帰ることになった、江戸の生活も、後二月になりますとお聞きした時には、正直、困ったと思いもした。
志村殿の書き置いた物も参考にして、まだまだに漂流民が事の補遺稿の纏めを進めているのだ。加筆修正をするに、志村殿に改めてお聞きすることとて少なくない。その相手が居なくなるとは考えても居なかった。昌永(山村昌永、才助)と右仲(松原右仲)に確かめる事とて一層必要になろうか。
堀田様にもお礼を申し上げねばと御部屋をお伺いすれば、関藩(一関藩)に下った(養嗣子になった)実子(幼名、常之丞、紀三郎)が第五代藩主、田村村資殿が娘、おかね殿と婚儀を上げたとお喜びだった。侯の穏やかなお顔だ。心に罹っていた大きなしこりが溶けもしたのだろう。
(常之丞は、後の一関藩、第六代藩主、田村敬顕である)
生木を裂かれる思いもした父子の別れが有ったのだと、あの桑原殿(桑原隆朝純(純明))にお聞きした事を、吾もまた侯の口から耳にした
儀兵衛殿が今にどの様に有るのかと、その消息に思いが行ったが、その後を聞くことも無い。
誰ぞに良くも悪くも、いや、良かる話を聞きたいものだ。
[付記]:ブログランキングに参加させていただき、全く思っても居なかった方々から小生のブログにアクセスが来て驚いています。いえ、大きな励みになっています。
全体ブログランキングでも高位に有る書道正師範の高須さん。その作品群をただで見ながら、感動しながら小学校高学年で書道を止めた自分を思い出しもしました。
小生の育ったその当時は、本人が知らずに、授業で習った書を学校が勝手に色々な作品展に応募して、ある日の全校生徒の朝礼の中で呼び出されるのでした。その時に手にした賞状と副賞のメダル等も5、60あったのですが今や押し入れの中で何処に有るやら。
今、小生の机の前に、仙台に本社を置く某新聞社主催の書道展の副賞として頂いた一つ、「玉功生耐忍」昭和32年〇〇〇〇、〇〇〇八十とある書を額に入れて飾ってあります。素人の自分が70歳で小説を書き始めるに、いい加減な心で途中放り出すなと己を励ますためにこれが良いかと凡そ十年前に掲げた物です。
〇〇の部分は、達筆すぎて80歳近くにもなる小生なのに未だに読めない部分です。書道は恥ずかしながら2級止まりでした。
アメーバピック(ブログによる収入)に参加させて頂きますとした小生ですが、未だにブログ投稿に際して商品等を貼り付けることが出来ずにいます。4月10日に再度所用で所沢に来る息子に教えて貰う事にしました。