十 稲村三伯の消息
「驚きと言えば、大槻様、稲村三伯殿が事で御座います。
何ぞ消息が知れる便りが御座いましたか・・・」
「いや。無い。確かな事は言えぬ。突然に姿を消した理由が定かでも無ければ、人の噂だけで口にすることも出来ぬでの。
姿を消した後、人伝に下総の登戸村、稲毛村に在る、いや上総の銚子村で医術を施していると住む所の話も二転三転しておる。
されど元気に有ればと祈りもしている所じゃが、それ以上には・・・、何ぞ聞きもされましたか?」
(稲村三伯は下総登戸村にて廻船業にあった富豪家の金七なる者の支援を受けて医院を開業した。また文化三年三月、下総稲毛村の百姓、菅右衛門の女、フユと結婚していた)
「はい。驚きました。
大阪からの(吾の)身内からの便りに、今に京に在って名医と名を馳せる御仁が突然現れた。仲間内の話では上総も登戸とか、稲毛とか言う所から来たお方と聞きもしていたが、段々に江戸に居たお方と知れたと有りました。
そして、ある日に小石元俊殿が倅、小石玄瑞殿が大坂に来た折、聞けば大槻玄沢様が所の門人だと言う。皆々驚いたと知らせて寄越しました。
名を海上随鷗としてございますが、京に開いた蘭学塾に学ぶ生徒に因州(現在の鳥取県)からの者が多く、また、江戸に下る以前、過去に大阪に居たと知る者も多く出て来て、それが稲村三伯殿であると知れたところに御座います。
京には、妻子を連れて来たとの便りで御座います」
「えっ。真で?。いや、それは良かった。驚きだ。
もともと「蘭学階梯」に感銘したと寛政四年だったか、吾の所に訪ね来て弟子にして下されと熱望した。
前にも話したかの。即座に入門を許した。鳥取藩が屋敷長屋から熱心に通い、瞬く間に蘭語に詳しくなりもした。間殿が(大坂から)推薦したあの橋本宗吉殿と同様、覚えも早ければ実に熱心な生徒だった。
亡くなった玄随(宇田川玄随)と玄真(宇田川玄真)の親子や法眼様(桂川甫周国瑞)、それに吾の手引きが有ったとはいえ、短期間に蘭語が辞典(ハルマ和解)を物にしたは、早々、誰にも真似の出来ることに御座らん」
「天文、地理、測量を学んだ伊能殿(伊能忠敬)と同じですな。
情熱が岩をも溶かすとか言います。
今では、京、大阪で蘭学を志す者、医学を学ばんとする者の信頼も厚く、医業の傍ら熱心に蘭学の普及、教育に当たっているとの便りに御座います」
(稲村三伯が塾に学んだ医者に藤林淳道(普山、著書に「蘭学逕」)、小森桃塢(訳書に「蘭方枢機」)等が居る)
「嬉しい限りで御座る」
「はい。誠に」
心配もしていたが、元気な消息が知れたうえに妻子の存在までも知れた。
間殿は暫く大坂に帰って居ないハズだ。されど、京、大阪の知識人に係る情報が今も入ることに改めて感服する。友を良くし、人の面倒を良く見もする間殿ゆえの事に御座ろう。
稲村が海上随鷗としたは如何なることか。やはり噂は真の事か。稲村三伯の名では生きられぬと言う事か。
「稲村殿が海上としたは下総も銚子とか言う所に住んだこと故かと想像もして御座います。
銚子の辺りは海に上と書いてうなかみと呼びもしますでの」
間殿の言う、下総上総の所の間違いに気づきながらも、吾は別の事に思いが行った。
あの高輪(現、東京都港区高輪)の東禅寺を思いもする。吾の所に来た(入門した)ばかりで(吾の)母の墓参りに付き添った稲村だった。彼が、東禅寺から見える東京湾の眺めに感嘆しながらも、大きく「海上禅林」(うなかみぜんりん)と表示されてあった座禅堂を暫く立ちすくんで見上げていたのが思い出される。
「今度来る時には、彼らが世界一周で寄り道した土地々々の緯度経度と、西洋の書もまた参考にして(吾の)知り得る限りの気候風土をお伝えしましょう。
外にも何ぞ聞きたい事、知りたい事が出てきましたら、使いの者に文でも持たして寄越して下され。
堀田様から改めて協力するよう御言葉も御座いましたれば、大槻様を手伝うは吾の仕事の一つと覚えても御座います」
「恐れ多くも忝いお言葉に御座います。改めて感謝申し上げます」
頭を下げると共に、堀田様のお顔が思い浮かんだ。