八 公表がための条件
待ちに待ったことだ。先にお呼ばれもした時から七日、絵図をお届けしてから六日が経っている。あの日の帰り際にお聞きした儀兵衛が事を思うに、医者溜まりで桑原殿(桑原隆朝如弘)にお聞きしたことも思い出される。
侯は部屋住みの身から近江に下るに、既に居た妻子と別れて堀田家の養子に入っていた。堅田藩の藩主になっていた。
侯の子はまだ二歳。可愛くも有る御子と(仙台)藩が下屋敷で親子の別れが有ったとお聞きした。親子の縁に武士も庶民も無いと語った侯の一面をそれで知りもした。
(堀田正敦の養父は堅田藩、第五代藩主、堀田正富。正室は正富の娘。別れた子は当時二歳。幼名常之丞、(紀三郎とも有る)で、後に仙台藩が支藩、一関藩の第六代藩主となった田村敬顕(後の宗顕)である)
侯が待つお部屋の前は何時ものように静けさにある。廊下に人の姿が見えない。今後の編纂の有り様が決まる。これから先、半年あるいは一年の己の行動の行く末の大半が決まる。そんな思いに何度もお伺いしている部屋と有っても、襖を開ける前に肩で大きく一息吸った。
侯は書見台を前にしていた。吾が着座したのを確認すると、見ても居た書籍を閉じた。
「御上(将軍、徳川家斉)の許しも出た。
久しぶりに越中侯(松平定信)にもお会いして、オロシヤに信牌を与えた頃の御話にもなった。
侯は、国を閉じたのが徳川(幕府)なれば国を開けるのも徳川で無ければならぬとのお言葉は今も変わらぬと仰せだった。
当時も今も開国が如何のとなればご先祖以来の御定法と言い、頑迷な者が多いであろうとおっしゃっていた。
其方の名も覚えて居った。出版された蘭学階梯に載る横文字を見て、侯の取り巻きに居りし者どもの中にも先に倣え、牢にぶち込めと言う者が居たのは吾も覚えて居る。
当時にも、侯は蘭学者が居なければカピタンと対等に話せぬ。地球儀に時計、地図、眼鏡から銀の食器、動きやすい衣服、草鞋よりも革の靴などなど、届く(献上品)西洋の産物を見ても我が国よりも先に進んでいる国がある。世を乱す世話物の本(出版統制の対象となる草双紙)とは一線を引くが良いと仰せだった。
此度の事(其方の願い)じゃがの。世間に書き物を公表するは良い。絵図を挿入するも良い。
見せて貰いもしたが、御上(将軍、徳川家斉)や侯(松平定信、白河侯、越中侯)の気をも引くなかなかの絵じゃの。
漂流民が行った先々の気候風土等を確かめるに引き続き間殿(間重富。天文方)の協力を得るも、吾が管理する所(天文方)にもあれば良しとする。
されど、(北辺)探事に書きもした事をそのままに世間に出すは許されぬ。
(御屋形様への)奏上が事の内容として許されても、世間一般に公表するに物議を呼ぶ物とて多くあった(含まれていた)での。
何の事か、分ろう?」
「はい。凡そには・・・。
耶蘇が事に御座いましょう」
吾の目を捕らえたままに侯が語る。
「その耶蘇が事は今も国の御法度じゃ。
オロシヤが耶蘇を宗旨とする国に有る事を知らしむは構わぬ。
されど、公表したいとする物に御屋形様の引見が先に有ったと記すな。
公表したが故に起こり得る事、それが何で有るか、吾にも想像出来ぬでの。
後に騒ぎになって、御上(幕府)の中に主の立場を悪くする事は有ってはならぬ。
次に、オロシヤで生きんがために漂流民が宗派を変えたと書くは良かれども、耶蘇が教えを一葉とて書いてはならぬ。キリストが教えを含む洋書の輸入は今も許しておらぬ。
三つは、キリストが事ぞ。奏上が事(北辺探事)にはキリストが処刑される前に弟子の十二人と食卓を囲んだ(最後の晩餐)。死んで三日後に生き返った(キリストの復活)とあるがそれ等を書いてはならぬ。
最後の食事の場で何が有ったか事の真相は分からぬ。また、一度死んだ者が復活したは法力故か、それで、庶民に耶蘇の普及を意図している、と重職達の要らぬ誤解を招く。
四つには、耶蘇の祈りが事よ。(北辺)探事には大指(親指)、人指し指、中指の三つを合わせて物を摘まむが如く額に当て、それからに腹に下ろし、左右両肩にする、すなわち、これ十文字の形を成すなどと詳しく耶蘇の礼拝が事を書きもしている。
だが、それを書いてはならぬ。それらは(北辺)探事までに留めよ。
五つには、山村殿、松原殿の協力が有ったとの事は伏せよ。万が一にも、後々二人が属する藩に耶蘇が事で何ぞ難事が及んではならぬ。
また、今から二人が藩に協力を得たと申し出るはかえって不当の事にあろう。それぞれの藩が、改めてか初めてか本人達に委細を糾問することにもなりかねない。
(仙台)藩にとっても、二人に公に協力を依頼した事でもなければ、聞き取り(調査)が事は秘時なのにと藩の中でさえも問題になる。そうあってはならぬ事だ」
返す言葉もない。赤面の至りだ。ただただ平伏した。
出版にかかる原稿が出来た所で吾(堀田侯)の検閲を受けよ、と仰せだった。また、侯はその後に、御上(将軍、徳川家斉)の手前、耶蘇の話になるに己の首、腹を掛けねばならぬ事だったと冗談混じりの口調に有った。
その覚悟の程を吾は思いもしていなかった。恥ずかしき事にもある。伏して謝り、そして感謝申し上げる外に無かった。
身を固くして縮こまる吾の心を和らげ様としてか、主(藩主、伊達周宗、十一歳)と将軍様(徳川家斉)が十一番目の姫(浅姫、二歳)との婚約が正規に調った(文化三年六月十一日)との御目出度いお話を伺った。
それが事の明らかになれば、藩の中は喜びに沸きもしよう。それをお聞きしただけで吾の心は一転、華やいだものになりもした。侯の人を思いやる広い御心に感謝する。
(伊達周宗と婚約していながらも徳川家斉の三女綾姫は寛政十年(一七九八年)二歳で夭折した。浅姫はその異母妹になる)