五 北辺探事の奏上

 大火にめげず、よくぞ仕上げることが出来たと今にも思う。やっとに、漂流民四人(十郎を含む)からの聞き取り(調査)の結果を「北辺探事二巻」にまとめて御屋形様に奏上した。(文化三年六月。一八〇六年七月。仙台藩主、伊達(だて)周宗(ちかむね)に奏上)

 吾と志村殿(志村弘強(しむらひろゆき))の名を記したが、(聞き取りが)調査は藩の秘事なれば、多くの事に協力を得ながらも山村昌永殿と松原右仲殿が名は秘匿せざるを得なかった。

 奏上するに、幼い御屋形様(十一歳)には、まず、オロシヤという国がどういう国なのか、レザノフは領内の漂流民を連れて来もしたが、オロシヤの真の目的は何なのか、それを知ってもらうことが第一に肝要と考えた。

 それゆえ、(北辺)探事第一巻は最初に()西亜(しあ)は北辺の大国にして・・・に始まり、オロシヤ建国の祖(ピョートル大帝)とその後を継いだ女帝(エカテリーナ女王)に触れた。

 そして、そのオロシヤは、オランダ、フランス、エゲレス(イギリス)、イタリヤ、イスパンヤ(スペイン)ドイツ等隣国と戦争に及びしも相静め、領地を西から東に拡大しつつある、蝦夷地近くにもその勢力が迫っていると(したた)めた。

 またその中に有って、レザノフはオロシヤが王様の国書を持参した、親日大使の命を受けていた。かつて越中侯がオロシヤに与えたと言う信牌を持参した、此度(こたび)は日本に交易を求めて来たと記した。

 寛政五年の世に伊勢(いせの)(くに)の漂流民を連れてネモロ(根室)に来たアダム・ラスクマンに、越中候(松平定信)がオロシヤに交易を認めるがごと信牌を与えていたと改めて詳しく書き留めた。

 その上で、御上の今のお考えが如何(いか)にあるのか、江戸表から派遣された目付、遠山様(遠山金四郎景(とおやまきんしろうかげ)(みち))が長崎奉行に手渡したとされる御上の書付の写しをレザノフに与えたと記した。

 勿論、御上は交易を認めずの結論だ。その理由たるや、正直、吾が思うにも呆れた物言いをしている。

 長崎は異国からの申し出等を審議する我が国の場所にして、凡そ十三年も前に貴国に付与した信牌はその長崎に安全に来れる様にと、申し出があれば薪や水等を提供をするとした物で交易を約束した物ではないと言う。詭弁も詭弁だ。

 しかも、我が国が海外諸国と通門せざること既に久しい。貴国から申し出があったからと言って朝廷歴性の法(定め)を変ずることは出来ないと応えている。

(仙台)藩が、御上の長崎奉行に充てた申渡書の写しを得ていることも秘匿を要する必要が有ろうか。漂流民を受け取らんがために長崎奉行所に出向いた平井殿(物頭(ものがしら)、平井林太郎)、(かち)目付(めつけ)の窪田殿(窪田栄助)が、秘密裏に奉行所の中で写しを控えさせてもらった物なのか、はたまた、別途、堀田様(堀田正敦。幕府若年寄、仙台藩主後見人)からの情報提供なのか吾とて分らぬ。

 何時、どのような問題に発展するか分らぬゆえ、誰からその写しを入手したと官途要録にも書き控えて置かぬことこそ一番の安全策でもあろう。御屋形様が御上の考えを知るように仕向ければそれで良い。詮索すまい。

 詮索と言えば、日本では御禁制であってもオロシヤはキリスト教が宗旨の国であると御屋形様に知って欲しかった。

 故に吾はギリシャ神話のゼウスと、キリ()ト(北辺探事にこの表記、キリスト)、キリストの母であるサンタ・マリアが事に触れもした。オロシヤのお寺の屋根には、何処(どこ)の地に行っても十字架が有ると書き記した。

 それからに、暮に引見したとはいえ、文書に有れば御屋形様も新たに気付くことも有ろうかと漂流民が情報を改めて書きもした。

 藩の廻米等を積んだ石巻の船、若宮丸が江戸に上る途中の寛政五年(みずのと)(うし)の暮れ岩城沖(現、福島県沖)で台風がために難破した。

 乗組員十六人は氷山も有る北國、北アメリカ領の島、オンデレーツケに流れ着き、そこからオロシヤが国の海の狩人に救われて凡そ十一年を島とオロシヤ本国各地で生活した。その内、凡そ八年はイルクーツクに居住した。

 そのイルクーツクで先に遭難した伊勢の白子の神昌丸に乗っていた新蔵、庄蔵と言う者に世話になった、また、神昌丸に乗っていた大黒屋光太夫と磯吉、小市を松前までも送ってきた、アダム・ラクスマンやその時の日本語通詞、トコロコフの世話になったとも記した。

 オロシヤ(国)は広大な土地にして王様は西の(はずれ)、ペテルブルグと言う所に住む。その王宮の在る所まではイルクーツから凡そ八二一露亜(約八五〇キロ)。お呼びが掛って、出立したのは十三人。だが、途中病で落伍した者三人。

 延々と旅をした。十人は王様に謁見する機会を得たと書いた。

 死んだ者は三人。病気になってその後の生死が分からない者が三人。キリスト教に改宗してオロシヤに残った者が六人、オロシヤの王様、アレクサンドル一世の前で帰国を希望した者四人。その四人が日本に戻って来れたと詳しく書きもした。