三 民治が心

 三月も半ばに成るか。民治が来た。学舎も被災したが吾はこの通り元気に有ると、玄関口で立往生が姿で五体を張って見せもする。

 笑いながら玄幹が、兄上お上がり下さいと手を引く。

 座敷に座ると、聞かずもがな、大火の事を語りだした。

 やはり、驚きが大きかったのだろう。なりふり構わず学舎に寝泊まりして居る学生の手を借りもして、各部屋に有った書籍を(学問所の)蔵の中に押し込んだ。一部は庭に運び出して穴を掘って葛籠が中にして埋めたと言う。身振り手振り入りもする話を聞くに、その大騒ぎが想像出来る。

 林家の私塾時代に収集された書籍に、昌平黌となって備えられた蔵書、贈与を受け書籍、(せい)(さい)書籍(しょしょ)もあって数えも出来ない、洋書も含め三万冊から有ったのではと言う。流石(さすが)に昌平黌と吾も驚きもする。

 何とか無事に済んだと言う事だが、その後に、神田も佐久間町に有った医学館も燃えた。そこにあった書籍も身幹儀(星野良悦作、徳川幕府に献上)も焼失したと耳にして唖然とした。吾等医学を学ぶ者にとって殊の(ほか)心の痛む情報だ。

 だが、民治はそれが火事の事を云わんがために来たのではなかった。仙台藩に勤めることになった、儒官としてお仕えすることになったとの報告だ。

 学頭(林大学頭述斎。昌平坂学問所初代塾頭)に呼ばれて部屋を伺ったら、尾藤先生(尾藤二洲)と古賀先生(古賀精里)が中に控えていたと語る。

「学頭は、堀田様に呼ばれてお会いして来たとの事でした。

 叔父上の名も出て、仙台藩が儒官として迎えたいと言ってきた。

 其方はこの事を知っているか、先にどの様な話が有ったのかと聞かれました」

 吾は体調を崩していたことと漂流民が聞き取りに忙しくて、堀田様に推薦もしたが肝心の民治に話をしても居なかった。

 本人が驚いたはもっともな事だ。民治は素直に、己の事とはいえ初めてに耳にすることにも御座いますれば、二日ばかり時を下されとその場の即答を避けのだと言う。

 だが、仙台藩に儒官として仕えることになったと、今日の報告だ。

「あの時、林先生は、叔父上の名を出しました。

 それで、叔父上の推薦が有っての事と理解しました。

 後にじっくり考え、結論が出たので今に報告に来ました」

 民治の語るを、玄幹と一緒に聞く。

「このまま昌平黌が務めで、いずれ教授に成るも良し、と考えました。

 されど、先生(教授)方の大概は学問所の教壇に立つ前に何所(どこ)ぞの藩で御勤めを経験している。

 それがまた、後々、学問所に籍を置くようになっても後ろ盾になっても御座います。

あるいはまた、己で塾を興し世間がその名を評判にするほどの実績を誇り、御上の方から学問所方の教授に成らんかと招聘(しょうへい)を受けても御座います。それを思えば、己は後ろ盾も無く根無し草。

 儒学を志して一緒に江戸に出た師匠、志村東蔵(東嶼)先生もかつて仙台藩に籍が御座いました。

 それらを思い、仕官の口を受けることにしました。

 叔父上に、先に報告をと思って来ました」

 吾の望んだ回答でもある。民治の言うに頷いた、

「兄上、良かったですね。

 御父上、それで良う御座いますよね」

 見習い医師で先に(仙台)藩に上がることになった玄幹だ。民治が祝い事を素直に喜ぶ。吾とて推薦もしたれば嬉しい限りだ。

 吾の俸禄から()いただけの玄幹の俸禄と、民治のために最初から積まれる大金の俸禄とは雲泥の差に成ろう。だがそれで良い。大槻一族にとって誇れる事件でもある。

「正式に決まりもしたら、田舎(一関)に報告するが良い。

 七代目(かつて杉田玄白の所で書生もした大槻丈作(大槻清臣)。大槻家の大肝入、七代目)も大喜びをするだろう」

「はい。有難う御座います。そのようにします」

「して、仙台には何時に行く」

 堀田様から御話が有った時の事を思い出しながら、吾の質問だ。

「はい。暫らくこのまま江戸に置かせて頂くことになりました。

 林先生は、堀田様に吾への宿題を直接お話されたように御座います」

「宿題?」