二 救済策
大火から凡そ一カ月経つに、そこここに焼け跡が放置されたままだ。この惨状たるや表現のしようがない。
日に日に陽は温かくなるものの、その反面、大規模な疫病が発生しないかと気にもなる。
物価の高騰は今なお続く。天明の世の飢饉に一関でも仙台にても庶民の行き倒れを多く見た。今にこの江戸でそれを見るようになるのを避けねばと思う。災害が後に、飢餓故に命を落とすなど避けねばならぬ。
だが、五三〇町にも及ぶ大火と言うに、御上の設置した御救い小屋は僅かに二十。医者と雖も和解の身(翻訳者)にあると雖も、先に人であること、己に出来ることは何かを考えて行動する人であらねばとの思いがつくづくする。
建部先生(故人、建部清庵二代目、由正。一関藩)が教えは、災害に備えて日頃の備えを良くにするよう語るとともに、人の上に立つ者の行動の有り様を教えていた。先生(建部清庵)の教えが、幼な心にも今の吾にも響いて居る。
疫病の発生を抑えんがために、悪臭の酷い地域は何丁に及ぼうと穴を掘り腐った物を処理すること、汚水を流し込むこと、自然のろ過の活用を提案した。また、藩独自にも御救い小屋を引き続き設置するよう献策した。
堀田様が頷いても居ったれば、期待出来る。
「お帰りなさいませ。
漂流民が事、何ぞお聞き出来ましたか?」
「いや、その話は聞けなかった。
無理もない。(江戸の)この大火だったからの」
新妻を迎えてからと言うもの、タホと一緒に吾を玄関口に出迎えることの多くなった倅(玄幹)だ。
(仙台)藩が政をも気にするようにもなったのは、己の立場を考えるようにもなったと言う事か。
お茶を部屋に届けるようにと、タホに言い付けて玄幹を部屋に誘った。
「藩の(火災の)被害の確認と、仲間皆々の安否の確認が第一だった。
それからに、仙台からの救援物資に手伝い要員受け入れの話でもちきりじゃ。
被災がゆえに後になって命を落とすはより忍び難いと、桑原殿(桑原隆朝純明)共々、江戸の町の衛生の保持、管理と、藩の御救い小屋の設置を何処にするか、出せる蔵米はどれ程有るのかと問い、救済策を進言してきた。
天明の世の飢饉を経験しても居ったればの。藩士の方々に限らず。江戸庶民に掛かる救済策もまた如何にあるべきか考えが必要よ。
良くも悪くもその時の対処方法が後々に庶民の間の評判にも成るでの。御上のお救い小屋二十かの。それに、五三〇町の中に在った武家屋敷八十余宇が悉く無くなってしまった事も考慮の内に入れた。
(仙台)藩は焼失した上屋敷、中屋敷跡(現、東京都港区東新橋、汐留)にも愛宕下の下屋敷跡にも、また、品川の下屋敷前にも引き続き御救い小屋を出すことになった。
前にも言ったかの、人を救うのは人間じゃ.。人にしか出来ぬことぞ」
「はい。その様に心して御座います」
「ああだ、こうだと思い言うは老婆心かの?」
「とんでも御座いません。色んなことを経験されてきた御歳の功でも御座いましょう。
何処に住もうと、人の命に大小も軽重も御座いますまい。
牛や馬でさえ生まれてこの方自分で立ち上がり母親の乳を探すに、人は産声を上げてもそれ以上の事が出来ません。元々、助け合って生きる生き物と定められております。人間を救うは人間だ、は最もな事に御座います。
吾はあの火事の後にもう一つ、心にしてお置くべき事と教えられもした事が御座います。
順庵先生(衣関順庵、眼科医))がお父上の所にきた時のお言葉でした。先生もあの大火に被災(江戸、小石川本郷)して御座いましたな。
眼は前についている、前を見るために有る。どんな災難も困難も何時までも続く物ではない。へこたれず前を向いて生きねば・・・、と仰せでした。
床に有るお父上(衣関甫軒)を長く見ても居ましたれば、(大火に)逃げるとて容易な事では御座いませんでしたでしょう。
御父上がこの江戸に夢を見た、江戸に出たいと夢を膨らませた、そのきっかけを作りもした甫軒先生とお聞きしても御座いましたれば、順庵先生がお言葉も記憶に残る物で御座います」
「(甫軒)先生は身体が不自由になった寛政の七、八年(脳梗塞と思われる)頃から病の床にあるでの。
順庵殿は実に十年余も御父上の面倒を見て居る。
(独自の)御救い小屋の方(設置)は、流石米どころ仙台藩と(江戸)市民の評判が良いと聞いても来た。
また、漂流民が事は、仙台から(江戸に)来る手伝い要員に何ぞ聞くことも出来よう」