吾とて瓦版屋が今に何を伝えているのかと気にもなるが、若いなーと思いもする。

瓦版を手にして戻るに、時折(たたず)み、読みもしてまた歩きだす玄幹だ。何ぞ興味の引く記事が載っていると先にその仕草で分かる。

「凄いね。こんな所まで火事になっていたんだ」

 言いながら、寄越す瓦版に目を()った。

 冒頭に、江戸の大火と言えば明暦の()(そで)火事(明暦三年、一六五七年)に、明和の行人坂(ぎょうにんさか)火事(明和九年、一七七二年)とある。

 そして、此度(こたび)の春の大火(文化三年、一八〇六年)を(くるま)(ちょう)火事と呼ぼうかとある。

三月も四日(一八〇六年四月二十二日)の昼から翌日にかけての大火だった。芝車町(現代の港区高輪(たかなわ))から出た火は折からの大風(おおかぜ)に乗って田町の町屋を焼き、三田の島津侯(薩摩藩)の上屋敷、増上寺の五重塔(ごじゅうのとう)をも焼き払った。大風は飛び火に飛び火を呼んだとある。

 神明宮(芝神明宮)も門前の店街(たながい)もたちまちに被災し、火はついに木挽(こびき)(ちょう)から数寄屋(すきや)(ばし)、京橋、日本橋、果ては神田川を越えもして西は神田の佐久間町から東本願寺裏辺りまで、東は浅草も新堀通り等までも焼き尽くしたとある。

 瓦版で初めて想像がつかない程の広範囲に及んだ火事だったと知る。

「被害は江戸の町の大方(おおかた)だな。

 その間に有った商家、長屋の町屋に限らず、武家屋敷までもが(ことごと)く消えた。六十からに在ったお寺も二、三十からの神社も全焼したと有る。

 焼失した家、屋敷は十二万とも十三万ともあるの。

 死んだ者とて千二、三百(人)とかあるが、何処でこんなに早くこれらが分かったのかの」

 吾の聞くに、玄幹も末吉も答えが無い。

 何処(どこ)の者と知れぬ無法者も、旅の途中の者も居る江戸なれば死んだ者とてもっと多かったでしょうと末吉だ。

 それで思い出しもしたか、夜空をも()がすほどに燃え続ける火事に、高く響きもする半鐘(はんしょう)の音。これが地獄かと避難した原っぱから人の逃げ(まど)う様、(さわ)ぎを見ていました。忘れようとて忘れられません。早くに避難したは正解でしたと玄幹だ。

 続けて言う。

「吾家も燃えてしまいましたが、一月(ひとつき)前、御父上と一緒に新築祝いに駆けつけもした源四郎(工藤源四郎)殿が屋敷も全焼してしまいました。

 引っ越して三、四カ月ばかりでしたのに気の毒に御座います」

(こわ)い物に地震、雷、火事とはよく言ったものよ。

 だが哀しいかな、その火事を抑え込むにこれまた大雨だった。

 恨みにも思う天の力だったとは皮肉な物よ」

 五日の朝方からの雨がやがてドシャ降りになり、昼四つ(午前十時頃)までにその大火を鎮火させた。瓦版の伝えるを読むに、そうだったなと思う。

「はい。吾等も(避難した)原っぱでずぶ濡れになりながらも、生きた、生きていると吾の命を雨にも思いました。

 五三(いみ)も六(大槻玄沢の次男、六次郎、後の大槻磐渓)も母上(義母、タホ)も、そしてお京も小春も、互いに木の陰に寄り添って肌をすり寄せて暖を取りました。

 誰も涙を見せませんでしたよ。あの時に、人は緊張のあまり涙は出ないものと分かりもしました。

 背にしていた呉座(ござ)が、あの時に傘にもなって幸いでした」

 瓦版が被災の現場を呼び戻す。玄幹の語るを聞きながらこれも筆の力かと思いもする。

「五日は午後から嘘みたいに青空が広がった。

 吾家(わがや)の焼け跡に家族が参集してからだったの。

 吾は、人間を救うは人間ぞ。へこたれてはならぬと口にした」

「はい。今に、己に出来ることをしようと仰せでした」

「皆を励まそうと思わず口にしたが、己に向けた言葉でもあった。

この先、まだまだ何が有るか分らぬとの思いでの・・・」

 

「夕餉までに、お時間が御座います。

 お力仕事でお腹の方も()きましたでしょう。

 (つな)ぎにこれを召し上がって下され。おやき(・・・)は信州が本場と聞いても御座いますが、出羽(でわ)(国)の米沢から届いた物に御座います。

 正月(旧正月)にお酒、季節のお魚と共に届いた物で御座いますが、お魚と違って、この季節おやき(・・・)は長持ちして御座います。

 焼きもしましたれば、温かいうちにお召し上がり下さい

 皿に六つも有る。お茶を淹れ直すタホだ。末吉にも玄幹にも何度か聞かせたことだが、堀内(ほりうち)()が消息をまたも語りたくもなった。

「このおやき(・・・)の送り主は吾が開いたばかり(寛政元年)の芝蘭堂の初の入門者よ。

 玄白先生(杉田玄白)のお話(仲介)が有ったとはいえ、米沢(藩)の上杉公(上杉治憲。号は鷹山(ようざん))が送って来た堀内(ほりうち)(りん)(てつ)殿(堀内忠明)と宮崎(みやざき)元長(もとなが)殿だ。

 お二人との間は今も親しく続いておる。医学の事はもとより学塾の有り様にも質問があっての、凡そ十五、六年も経つに季節の結構な物さえも届く。有難い事よ。

 同じ北国(きたくに)の生まれにも有れば、二人とは天明の飢饉(ききん)にも触れて被災者等の救済策を論じもした。

 おやきは米やそばの量を減らしながら栄養価の高い野菜をあんこ(・・・)にして(ふく)らまし、災害時にはもってこいの物(食料)と聞いて居る」