十六 文化の大火

「ガタピシ(うるさ)くて(ろく)に眠れもしなかった。この大風(おおかぜ)何時(いつ)に止むのかの」

「春一番でしょうか?」

「一番も二番も有るか。この間の大風にも春一番とか言っていたぞ。

 この半端ない風に火事でも起きたら大変ぞ」

昨夜(ゆうべ)も遅くなりましたか。お茶でもお飲みになってお気をお静め下さい。

 朝餉(あさげ)の用意も間もなくに出来ます」

「御子様達を起こして参ります」

 妻と一緒に台所に立っていたお京の姿が消えた。白髪の混じるようになったお京だ。

 安普請(やすぶしん)の家とて、襖も障子も今の大風に音を立てて揺れもする。

 昨夜(ゆうべ)いろは(・・・)組(町火消し)も火付け盗賊改め方も出番にならずに済んで良かった と思いしも、寝不足の続く身体(からだ)に眠れぬほどの大きな音も揺れも()らん。

 妻が淹れたお茶を(すす)り寝ぼけ(まなこ)()ますか。音も揺れもさほど気にせず眠れたと語る妻が(うらや)ましくもある。

 シャンシャンと半鐘の音が聞こえてきた。何処ぞで火が出たらしい。

音から(‘判断)すればまだ遠くも有るかと思いしも、こうなると春一番も二番も無い。火元は何処ぞ、この辺りは大丈夫かと確かめねば落ち着くことも出来ない。

「旦那様。火事で御座います」

「分かって居る、音がすればの。

 火元の方角は何処に有る?」

「あれだと芝の方でしょう。割と近くに御座います」

「何だと?、芝?」

「はい、増上寺の方角に煙が御座います。

 それが、神明宮(芝神明宮)の方にも火の手が回ったとか。

通りに出て見もしましたが、周りが騒々しくもなって御座います。

 ここらは(この辺は)今の大風に風下(かざしも)にもなります。

 用心がため逃げる算段(さんだん)も?」

「神明宮にだと?

 末吉、穴だ、穴。万が一のことも有る。

  前にも言ったとおり庭に穴を掘れ。(つづ)()ぞ葛籠。

 本、必要な紙類を(おさ)めて鋼板じゃ。

 その上に鋼板ぞ(鋼板を葛籠の上に乗せる)。

 吾も手伝う」

 穴掘りだけではない。いざとなったら葛籠の中に収め置く書籍、洋書をどれにするか、近頃は油断もしておればそれとて決め置くことも怠っていた。

 聞き取りし物が束も(葛籠の)中に入れねばなるまい。元を無くしては北辺探事を纏めることも出来ぬ。(御屋形様に)奏上出来ずば切腹物ぞ。

 一瞬、先生(杉田玄白)がお屋敷の蔵書蔵が思い浮かんだ。明和の大火(明和九年、一七七二年の大火。大槻玄沢が江戸に上京する七年前の大火で江戸の三大火事の一つ)は知らぬが寛政九年だったか、神田も佐久間町から出た火は折からの木枯らしに吹かれて浜町までも飛び火し先生が宅も全焼した。火が浜町一帯をも襲った後の蔵書蔵(寛政十年完成)だ、蔵があれば・・・。此度(こたび)は浜町までは火も回らぬだろう。

「貴方様、御子等は・・・」

「決まって居よう。山じゃ、山。

 逃げるに早かれどもこの大風じゃ。用心に越したことは無い。

 玄幹に伝えよ。部屋に居るハズじゃ。其方が皆を引き連れよと父の言葉だと伝えよ。

 先に逃げよ。余計な物は持つな。命あってのことぞ。

 此度は山王様(赤坂、日枝神社)境内が良かろう」

 三尺、二尺の縦横(たてよこ)に、深さ二尺の葛籠を埋める穴。それで足りようか?。場所を決めては居たもののいざ掘るとなると容易ではない。現実になるとは思いもしていなかった。

「旦那様。表は()うに逃げる人、人、人で一杯で御座います。

 大八(だいはち)(車)等も混じり、このままでは山王様に行くにも容易では御座いません。

 辿(たど)り着いても山に逃げられるか、上れるか・・・、知れもしません」

 声のする方を見れば、悲壮感が漂うお京の顔だ。()めもした掛け軸、錦絵等であろう。風呂敷包みを背中にしている。手にも持つ風呂敷からも掛け軸の軸木(じくぎ)(はし)が見える。

「山(赤坂、日枝神社境内)が駄目なら桜田門の先ぞ。

 あの明地(あけち)(防火用の何も無い土地)ぞ。皆揃って逃げ込め。

 家族皆が一緒ぞ。離れぬ様にせよ。

 玄幹が言うことを良くに聞けと六(六次郎)に聞かしてやれ。

 家族を頼む」

 駆け出していくお京の後ろ姿を見て、()しかしたらあの背中に有った絵も掛け軸も葛籠の中に入れたかったのではと思いもした。

 書籍も洋書も地球儀も天球儀もだ。幾つかの絵図もが実際に如何(どれ)ほど穴の中に収納できるのか。お京の望みに応えられたのか、その余裕とてあるのかどうか今になって日頃の不精に反省の心が湧く。

 額(ひたい)から流れる汗は何する物ぞ。末吉は額の汗を(そで)(ぬぐ)った。

 火事だー。火事だー。逃げろー。通りを駆ける人の足音、大八車等の音も大きくなれば、子供の泣き(わめ)く声までもが聞こえてきた。

 カンカンカン、半鐘の音が一層近くに、高くも聞くようになった。

 

[付記]:次回から、第28章 多事多難になります。

   3月10日。実に久しぶりに感動を覚えるドラマを見終わりました。小生の人生の中では、高校生の時に見た「人間の条件」(仲代達矢主演)が一番のドラマ、映画と思って居ますが、それと匹敵するほどのドラマであり圧倒されました。

     紹介します。中国ドラマで「天下長河」です。日本での題は「康熙帝」となっています。三人の若者が、官僚になるべく科挙合格を夢見て北京に出る所から物語は始まります。

(科挙に)合格したのは三人のうち一人でしたが、三人が三様に康熙帝とかかわりを持つようになります。

     題にある「天下大河」とは、中国本土を5,486キロメートルに渡って流れる河、「黄河」を差します。その黄河の治水に関わるドラマです。

     毎年、土砂を含んで氾濫する黄河の姿はまさに黄色い龍が暴れている姿に見えるのでした。人々は「黄龍が来た」と言います。

     清王朝が成立したばかりの頃から、数十年に渡って黄河の治水に掛ける康熙帝と(きん)()総督と陳潢(ちんおう)(陳天一)の物語です。膨大な費用を要する中で、一緒に仕事する仲間等の裏切りや讒訴等にもめげず庶民を思い黄河の治水に取り組みます。

     人の命は百年、だけど黄河は数千年と流れる。庶民の安全な生活を思い陳潢(ちんおう)(陳天一)の書き残した「河防述(かぼうしゅう)(げん)」は、康熙帝に幽閉されがらも、暖を取るために鍋を火にあぶり、出来た(すす)を集めて書き残した物でした。

 

     小生は、ドラマ好きな老妻との楽しみにとJcom回線で60余チャンネル、ドラマ無料見放題に加入しています。ですが、もっぱら利用しているのは老妻です。

 大槻玄沢抄を書きながらに仙台の漂流民、津太夫達が辿った経路の文献調査をしている際に、アムール川を境にして清とオロシヤの領地に分かれる境界は康熙帝28年(1701年)の時の両国和睦と知りました。

 その朝に食事を終え、小生が毎朝20分、ベランダ行っているラジオ体操第一、スクワット、空手の中堅の突き、踏み台を使っての上り下り等で身体をほぐして戻ると、康熙帝のドラマ第2話を見ている妻に気付き、康熙帝を知るに丁度良いかと何気なく小生も見たのでした。

 いやはや老妻よりも小生の方が夢中になってしまいました。一話45分程度ですが一話一話が丁寧なつくりで、しかも感動を呼ぶ物でした。リモコンを占有し、以後、一日に2話3話とみる始末で老妻の方が呆れかえっていました。

 でも、それほどに感動を感じることの出来る作品です。全40話。2026年8月31日まで、無料、見放題となっています。

 Jcom回線加入に初期費用が掛かりますけれども、映画館で一本の映画を見るよりも月の支払いも大安(おおやす)です。鬼平犯科帳も見れますが、洋画、各国ドラマ、中国ドラマ等も視聴にお得な仕組みです。

 「天下大河」を見終えて、思わずテレビに向かって拍手してしまいました。