十三 堀田様の提案

「おはよう御座います。

 三人は今頃、仙台にもかなり近くになりましたでしょうか」

 昌永の力の入った質問だ。早くに出仕したつもりが、三人は既に定位置の机の上に資料を広げもしていた。

 昌永の机の傍に置いてある地球儀が大きく見えもする。

「二日続けてお休みを頂いたは溜りもした家の事をするに丁度(よう)御座いました。

 久しぶりに子らの相手も出来ました。

 御配慮(かたじけな)く存じます。有難う御座いました」

 昌永の言うを聞きながらに三人の顔を見た。三日前よりもそれぞれが生気に満ちた顔をしている。

「いやいや、藩も違うに良くぞお付き合いしてくれた。

 朝から晩まで凡そ五十日、泊りがけがの日もあったでの。

 昌永殿にも右仲殿にも改めてお礼を申す」

 如何(どう)なるか分からない。昨日に、時には泊まり込みもして協力して呉れたと平賀様(平賀(ひらが)(よし)(ひろ)。仙台藩江戸番奉行)に御報告し、藩も違うお二方に何ぞ御褒美をと催促した。

 差し出がましい僭越(せんえつ)な事と重々承知している。だが、している事が秘事の秘であることの上に、大藩(たいはん)の仙台藩なればこそと申し上げた。

 藩から(褒美が)無くとも吾の懐から感謝の粗品を差し上げる気も有る。だが、思っていた経過報告かたがたの事の外に、吾こそ驚く事を頼まれもした。

「今日に堅田侯(堀田正敦)が部屋で御待ちじゃ。

 其方も忙しければ、この屋敷に顔を出した時で良いと(おお)(つけ)かあっての。

 侯も忙しい身に有るがたまたま今日に御部屋に()る。

 先ずは顔を出すが良い」

 続いてあった、何ぞお話が有るようじゃ、吾も聞いても居らぬとの言葉に、さて、何が用事じゃろ。暮の御屋形様(漂流民)引見の時の立ち合いと、この正月に大広間で皆々(藩士一同)と一緒に御拝顔に及んだ時以来になると(廊下を)歩きながらに思いもした。

 やはり漂流民が事を(じか)にお聞きしたいのだろう、お部屋を訪ねた。

「座るが良い。もっと近くも寄れ。

 畏(かしこ)まるな。相談したき事があっての」

 それからに、急がずとも良い。じゃが確実にこの事を進めたいとの最後のお言葉だ。いやはや、吾にとって嬉しき事にも有るがズシリと心に重く()()かる。

(吾の)藩医の一人としての評価は兎も角に、吾が蘭学を、翻訳が事をお認めて下さっているのは間違いない。また、侯が語る、人材育成の要にある藩校養賢堂が塾生も減り、その機能がおざなりになっているとの指摘も(まこと)のように思う。

 兄(志村(しむら)實因(さねより)、儒学者。(あざな)子環(しかん)、号・()(じょう))が養賢堂の運営に関りがあるとも聞いてもおれば、志村殿(志村弘強(しむらひろゆき))にこれが事を話したら何と言うか。暫くは口に出来ることに非ずか。

 堀田様は、学制改革とその施設の充実を図らねばならぬ、その先頭に立つ人材が必要、誰ぞ居らぬかと仰せだった。今に全国の各藩が人材育成がためと藩校の充実、新規創成を進めている。大藩の仙台藩が後れを取ってはならぬと言う。

 かつて、工藤様(故人・工藤平助)は新たに藩校を創設する藩が増えている。人材育成に力を入れる藩とて増えている、世界を見なければならぬ世が来ると語った。

 また、米沢の鷹山(ようざん)侯(上杉(うえすぎ)(はる)(のり)、出羽国米沢藩第九代藩主)が藩校、(こう)譲館(じょうかん)の再建を図らんがためと人材育成に力を入れて、出来たばかりの(吾の)芝蘭堂に藩士を送り込んで来たは昨日の事のようにも思える。

 記念すべき芝蘭堂第一回生の堀内(堀内(ほりうち)(りん)(てつ))や宮崎(宮崎(みやざき)元長(もとなが))が今も米沢から医学医術に係る質問を寄せ、教えを請い、時にはその返礼にと季節の野菜も魚も送って来る。交流が今も続いているのだ。

 学制改革等がために誰ぞ推薦できる人をと言われても、思い浮かぶはただ一人、民治(後の大槻平泉)だ。

 玄幹と民治が長崎に遊学するに、かつては堀田様に薩摩や長崎などで何かと便宜を図っていただけるようにお願いしたことも有れば民治の名を覚えても居ようか。

 かといって、民治は(昌平坂)学問所の中でも既に学頭からも他の教授方からも信頼を得ており、舎監に有るばかりか教壇に立つようにもなったのだ。今に危険を冒すような未知の世界に送り込めないか。

 先ずはこのような話が有ると民治に語ってどの様に思うか。判断は民治の意思、考えに任せよう。仮に民治から仙台藩に身を置いても良いと聞けば、吾に出来るは今よりも高い報酬をあてがって貰うよう、話を進めることか。