お役人様の官名、職掌から武備、果ては政の特徴、銭貨を繰り返し聞きもしたは志村殿だ。その区分が事は(漂流民)三人よりも光太夫殿の方が詳しかった。
それからに、オロシヤの気候風土に農耕、漁業、林業、物産、交易等々の質問に及んだ。
彼等の世界一周に係る訪問した先の土地の気候風土は、彼らが行ったという日月をそのまま間殿に伝えて教えを頂かねばならぬ。
極寒のシベリヤ、凍てつく氷の湖、川、白夜の冬、赤道直下の島々、裸の島、三人の話からオロシヤも南洋の島も大方の気候風土が知れたが、訪問した日月等が曖昧なれば彼らの話が何時の頃の事かと検証するに教えて貰う必要も有ろう。
彼等三人、いや、四人が体験してきたことは前代未聞未曽有の一大奇事だ。行った先の土地の位置、地球上の緯度を知ることにも、また船の進路を決めるに参考になると聞いても居る天体の動きにも今や吾とて関心が湧く。
己の役に立てんと医療事情や言語、翻訳、書籍の類に関わる物を最後の最後まで聞きもした。だが、彼等の知る所は生活の上で覚えた物だけだった。翻訳に役立ちそうにも無ければ、光太夫殿の教えを超えて新しく知れる事も殆ど無かった。医療事情や書籍の事もかつて光太夫殿に教えて頂いた方が詳しい。
南国の島の人々と、そこに住む人の生活等を知れたを良しとするか。
(環海異聞の巻の四にオロシヤの飲食、衣服等が紹介され、巻の八に日本語を先に置いてオロシヤの言葉(表現)をカタカナで表記している。
その内容は、桂川甫周(法眼、桂川甫周国瑞)の「北槎聞略」に記載されているオロシヤの飲食、衣服等や言語等を超える物ではない。
むしろ、大槻玄沢が後に「環海異聞」を編纂、世間に公表するに、大黒屋光太夫から改めて北槎聞略の内容に掛かることを参考に聞いていると思われる。また、桂川甫周自身がその事を了解していたのではと思える。
それ程に、江戸幕府の秘中の秘であった「北槎聞略」の巻の五から巻の十一に載る調査区分の仕切りとその内容は、後に纏められた「環海異聞」のそれらと極似している。大槻玄沢が手本にしたのか。
なお、諸書の出版を見るに、時に序文を認めるなど甫周とその弟、森島中良と玄沢、三人の間柄がかなり親しかったことが伺える)
(参考図―早稲田大学図書館所蔵本、環海異聞に載る衣服(再掲)、言語の例)
吾らは数々を聞きもしたが、今に思えば応えもした津太夫等とて大変な思いだったろう。これで終わりですねと念を押し、石巻に帰れる。田舎に帰れると目の前で喜びを口にした三人が思い出される。
これらを整理しようと思えば溜息も出る。本人たちが居なくとも聞き直すことが出来ずも、あの時の応えはどうだったかと思い出しながらに整理するしかあるまい。だが、今に吾が心は御屋形様に奏上してそれで良しと思えぬ事と覚えもしている。
江戸の父と思っても居た工藤様(故人・工藤平助)が田沼様(故人・田沼意次)に蝦夷地開拓を具申して何年が経つのだろう。蝦夷地開拓がどころか、オロシヤとこの日本とで北國の領地問題となれば今後に紛争(戦)も有り得ると危惧する。
単に北に不安を抱くよりも、オロシヤの国力、軍備力等を長崎(長崎奉行所の取り調べに依る)よりも先にこの江戸で御上に伝えねばなるまい。また世間にも庶民にもオロシヤとはいかなる国かと知って貰いたいと思うのだ。
それがための手段、方法とて堀田様(堀田正敦。堅田侯。仙台藩主、伊達周宗の後見人。幕府若年寄))に相談せずばなるまい。
(聞き取り)調査の結果は五月末までに御屋形様ご報告せねばなるまいが・・・。



