儀兵衛の語りだ。

「(身の)引き取りを伝えられで、俺(おら)も嬉すぐもホッと()たのも言うまでもねゃ(ない)

 田舎に帰れる、家族に会えるど思うど後がら後がら涙が止まらながったー。太十(郎)の家に一緒に付き添ってやらねば、報告に行かねばど直ぐに思いも()()た。

 だどもその後に、オロシヤの通詞(つうず)の話すっこを聞いで何ともやり場のねゃ(ない)怒りを覚えだのっしゃ(です)。

 腹が立づ(ち)ま()た。涙を抑えるごどが出来ながったー。通詞(つうず)俺達(おらだづ)の身柄引き取りに掛かる経緯(いぎさつ)を語って呉れだのっしゃー(です)。

 長崎(奉行所)は俺達が遭難()た仙台領の船の(すい)()ど分がっ(る)ど(確認出来ると)直ぐに身柄の引き渡()を要求()た、それが九月半ばの(ごど)だったと言うのっしゃ(です)。

 レザノフ様は、交易を始めでゃ(たい)、それを認めで頂ぎだい、そん(の)ために江戸に行ぎでゃ(たい)、将軍様に会いでゃ(たい)、オロシヤが王様の書(国書)を将軍様に直接に渡すてゃ(したい)、それが認められるまで、良い返事(へんず)が来るまで四人の身柄を預がるど長崎(御奉行所)に言ったと(かだ)ったのっしゃ(です)。

 それを聞いで何とも言えねゃ(ない)気持()になりま()た。俺達(おらだづ)四人の(身の)引き取りが直ぐに認められながったのは、この日本がお国を閉じているがためとばがり思って居ま()た、太十(郎)はこの国の何たるごどがど嘆いでも居たのっしゃ(です)。

 それが、レザノフ様の所為(せい)、要求が通らなければど俺達がレザノフ様に盾にされでいだのだと()ってたまげだー(驚きました)。

 太十(郎)の嘆きは何だったんだべ、十二月になっての自殺未遂(文化元年十二月十七日、西暦一八〇五年一月十七日)は何だったんだべ。太十(郎)は日本とオロシヤとの間の交渉の犠牲になったと同()だべ。

(オロシヤ人の)通詞(つうず)はただ経緯(いきさつ)を語っただけだども、聞いていで腹が立づま()た。

情けなぐなりま()た、(かな)()ぐなりま()たよ」。

 津太夫が言う。

「俺達は一介の身だべ。庶民だべ。その俺達にお国の事は分がんねゃ(分かりません)。

(まつりごと)は俺達に関係ねゃ。ただただ()だり前に平和に暮ら()て行ければ()いど思っても居ん(る)のっしゃ。

 儀兵衛の言う通り、今になって太十(郎)が哀れにも思えでくんべ(くるのです)」

 津太夫殿()よ。お国の(ごど)は分がんねゃ。(まつりごと)俺達(おらだづ)に関係ねゃでは無いのだ。何時の世も吾等庶民はお役人様の方針、政の有り様に翻弄される。この世に生きても居ればただでは済まない、傍観者では居られない、お国と無関係では居られないのだ。口にせず心の中で津太夫殿に反論した。

 現に其方(そなた)も吾等とてもご時世の流れの中でお殿様から聞かれる者、聞く者に分かたれている。これも政(まつりごと)の一つ。太十郎が犠牲も二国の政(まつりごと)の結果ではないか。

 吾等庶民は否応なく為政(いせい)の中で生かされておる。ならば政は俺達に関係ねゃ(ない)ではないのだ。お国の(たが)(制約)に時には反論も必要なのだ(命がけか)・・・。

 折角に世界を見て来たのだ。良いも悪いも有ったろうが異国の事で良いところはこの日本にお役立て下され、広めなされ・・。心の中で津太夫殿に訴えたくもなったが・・・。太十郎殿の回復を願う。