十一 漂民引き渡しと、レザノフの帰国

「太十郎の事が有って、暮も年明けにも気が気ではなかったと思うがの。

 長崎でのナデジダ号の修理は何時頃まで掛かったのかの?

 知っておるかの?」

「いやー、良くに分がんねゃ(分かりません)。

 修理する材料を手にすん(る)のも御奉行所を通ずでだど聞いていま()た。

簡単には(修理が)出来も進みも()ながったー。

 指定(すてい)されだ修理する場所とて、俺達(おらだづ)がら見でも狭がったのっしゃ(です)。

 んだがら、年明(とすあ)げ(文化二年一月)の十日頃にもオロシヤ人の手で修理すっ(とこ)の拡張工事(こうず)さえ行われでいま()た。

 日本人の通詞(オランダ大通詞、石橋助左衛門)が来で、何時に修理が終わん(る)のがどシュテルン様に聞いでいだのが一月も末だったべ(でしょう)。

 その頃には俺達の耳にも御上がらの返事が良ぐねゃ(ない)、レザノフ様もシュテルン様も(おご)っているど兵隊さん達の噂話(うわさばなす)が耳に(へゃ)ってきていま()た。

 俺達にも御国(日本)の態度が如何(どう)なっていん(る)のが、薄々()れだ(どご)っしゃ(のです)

 散々(オロシヤに)世話になったと雖も、俺達(おらだづ)に協力できる事でもねゃ(ない)す、困ったごどだーど(はなす)()ていま()た。

 レザノフ様は航海生活を良ぐに()っておいでだー。俺達も船乗りだがらそれが良ぐ分がっべ(分かるのです)。己の命も、乗組員の命も軍船(ふね)の安全を守るにも、レザノフ様はす(し)っかりど修理(すううり)を終えねば海に出る気は無がったべ(でしょう)。

 修理の進み具合を見ながら御上の良い返事(へんず)を待っていたんだべね(いたのでしょう)。

 船に残って居だ兵隊さん達も陸に上がった将校さん達も、毎日毎日忙()そうに()ていま()たよ。有る者は船底から帆柱までの大工仕事に精を出す(し)、針と糸を手にすて白帆(しらほ)の修理に当だる者とで居ま()た。

 目に付いだのには、船からでも(おか)からでも見える長崎の屋根屋根、景色(けすぎ)、港の風景等を一生懸命に描き写している人も居ま()た。

 遠眼鏡(望遠鏡)を覗いでる者も居ますたよ」

「オロシヤ側から其方等の受け渡しは何時の事だったのかの?

 また、ナデジダ号の出帆は何時だったのかの?知ってるか?

 知るところで話して呉れるか」

「へえ。梅ヶ崎の土蔵宿舎に居る俺達にお呼びが掛り、(長崎)御奉行所のお役人様に(四人の)身を引き渡されだのは三月も十日(文化二年三月十日、一八〇五年四月九日)で()た。

 立山という(どご)にある奉行所に連れで行がれだのっしゃ(です)

 伊王島に着いでがらも半年も()っていだのっしゃ。んだがら、その日は忘れようにも忘れられねゃー(ないのです)。

 そのまま拘留(こうりゅう)され、その日にも漂流するようになった経緯(いきさつ)がら今度の帰朝に至るまでの始末を吟味されだー。

 レザノフ様やシュテルン様が御奉行所のお迎えの駕籠に乗ってその前に何日が出がげでいま()た。んだがら、いよいよに江戸がらの使者が長崎に着いだのだな、オロシヤと御国の交渉が行われているのだなど誰が何を言わずとも想像がつぎま()た。

 俺達は己の身が無事(ぶず)に日本側に引き(わだ)されるように、受け入れで貰えるようにど、土蔵の壁に向がってさえ祈って(い)ま()た。

(仙台)藩から迎えが来たど聞いだ(どぎ)には何とも言い様が無がったべー。喜びで胸が一杯(いっぺゃ)だったー。

 前の夜、オロシヤの通訳が来てくれで、日本のしきたりや風習を俺達(おらだづ)に聞きながらも交渉の場の情報を耳に入れで呉れま()たよ。

 長崎の御奉行様二人を挟んで真ん中に江戸からの使者が居だ。遠山金四郎景(とおやまきんしろうかげ)(みち)ど言う御方だったと、聞きも()たその名を今でも覚えでいんべ(います)」。

遠山金四郎景(とおやまきんしろうかげ)(みち)は、ドラマ遠山の金さんで知られる北町奉行所等の御奉行、遠山金四郎景元(・・)の父である。寛政四年、松平定信に依って実施されるようになった学問吟味における人材登用試験制度に甲種主席合格した最初の人物である。)

 津太夫の語るに、江戸からの使者、遠山景晋の名は先生(杉田玄白)が所で去年の今頃に聞きもした事だなと思いもして居ると、意外なことを耳にした。