朝餉もお茶も早々に切り上げた。もう少しゆっくりしてもと思ったが、光太夫殿が先に席を立てば吾も昌永もそうもしておれぬ。
己が部屋に戻るに、光太夫殿が部屋に首を出してみた。
途端に、背中を見せたまま光太夫殿の素っ頓狂な声が響いた。
「いたー、いたー、庄蔵です。
あの左足を切断した庄蔵の事が書かれております。
庄蔵と新蔵の消息が知れます」
襖を開ける音に気付きもしたのだろう、吾等の方を見て訴えるように言う。思わず昌永を誘って中に入った。
光太夫殿は吾の記録の一枚一枚を捲り、急いで目を通していく。だが・・・。
「一生懸命に歩く練習をしていたのです。
無くなった足の太腿に補装具を点けて一生懸命に歩く練習をしていたのです。
今はきっと・・・」
興奮の面持ちの声色が・・変わった。
「亡くなったとは・・・」
「そこに書いて有ると思うが、帰国した中に儀兵衛と言う者が居っての。
一時、庄蔵殿と一緒に暮らしていたらしい。
同居していたらしいが寛政八年の夏だと言っておった。
流行り病であっという間に亡くなったと言っておった。
先に其方が良い記憶だけではないと言っておったが、それがなんであるか吾に想像出来た。
だが、庄蔵が事、新蔵が事、殊の外心配して居たみたいだったでの。
吾の口から(庄蔵が死を)言えなかった、許してたもれ。」
肩を揺すり、大粒の涙を流す光太夫だ。訳も知らず昌永は吾の顔と光太夫殿が姿を見る。
「何が御座いましたか?」
誰に聞くともなく発した昌永の穏やかな問いに、怒気を含んだ声だ。
「吾の勝手です、エゴです」
「いや、そう言わずも・・・」
慌てて否定した。
「先にも話した通り、庄蔵は片足を無くしたのです。
庄蔵は吾らが帰国を知って、一緒に日本に帰る。連れてってくれ。
待ってくれ。大将。光太夫殿・・・。そう言ったのです。
吾を追いかけ、雪道に片足を取られて倒れても、待ってくれ、待ってくれと倒れたままに右手を突き出したのです。
あの泣き叫ぶ声を今も忘れることが出来ません。
あの時、改宗した庄蔵を連れて帰れば自分達の身が危ない。
やっとに手にした帰国の機会を失う。日本に帰れない、帰国できない。(吾の)頭の中はその事で一杯だったのです。
何度も何度も、心の中で庄蔵!、許せ、勘弁してくれ、勘弁なと叫んでいました。
二度と後ろを振り向きもしませんでした。
そして今に、時々思うのです。庄蔵が改宗を隠し通せなかったのか、日本に着いたら耶蘇が事、隠し通せば良かったのだと思いもします」
「いや、人間は弱いものよ。
庄蔵殿には気の毒だが、仮に彼を伴って帰国して居ったらおそらくは根室か松前か、何処かでその秘密は破綻していたろう。
なれば其方も磯吉殿もオロシヤ(国)に追い返されていた。
今のような暮らしにはならん。有り得ない事ぞ」
嗚咽しながら、吾の記録した書き物にさえも両手を合わせる光太夫殿だ。
その頬を大粒の涙が伝う。見守るしか手はない。
それから暫くして、今度は落ち着いた声だ。
「新蔵の事も書かれてますね。
津太夫殿達は新蔵ともお会いしているのですね。
庄蔵と同じイルクーツクに住んでいたのですから当然と言えば当然ですけれども・・。
日本語学校の先生か・・・。オロシヤの女子との間に二男一女、妻が無くなって再婚して一女か・・・。
何処に居ってもその場に合わせることが出来る、才覚の働く新蔵らしい生き方です」
「記録して御座るが、その新蔵殿が津太夫達十人と一緒に、モスクワを通り、オロシ ヤの都だと聞くペテルブルグに行っておる。
この後も、お読み下された所で聞きもしたい、確かめたい所が有ればお声を掛けて下され。
其方の恩人、ラスクマン親子も既に他界していた」
「はい。先に知りました、(記録に)書いて御座いました。
心の中でご冥福をお祈りさせて頂きました」
「人の世は移るのも早い出の・・・」
光太夫殿が心情を測るに、それ以上に言うことも出来ない。昌永を促し部屋を後にした。