「それは初耳に御座います。

 六十にして十七歳の妻、赤子が居た、毛皮商人、しかも同じ地にあった船長とあれば同一人に間違い御座いませんでしょう」

 昌永が相槌を打った。

「以前に話もしたが、皆々も光太夫殿が事は()うに耳にしても居よう。

 幕府が松前(藩)から光太夫殿と磯吉殿の移送を受けて直接お取り調べに当たった。将軍様(徳川幕府、第十一代将軍、徳川家斉)も二人に接見した。

 オロシヤの言葉、生活の有り様、軍事力等を知らんがために纏めるよう指示されて、その任に当たったはあの桂川法眼様(桂川甫周(くに)(あきら)。幕府奥医師、)じゃ。

法眼様は将軍様引見の場を「漂民御覧之記」として纏め奏上し、その後に、凡そ一年余の時を要して光太夫殿と磯吉殿に広く聞きしオロシヤが事を、「北槎聞(ほくさぶん)(りゃく)」と題して纏めてもいる(寛政六年八月)

 吾は兄とも思い、親しくさせても頂いている法眼様なれば、光太夫殿と磯吉殿を紹介させて貰った。お二人にオロシヤ人の言語から生活の有り様等までも教えて頂きもした。

 二人が日本に持ち帰った物の中でも特に驚きもした物はオロシヤ語の控え、千五百もの言葉の控えである。

(北槎聞略巻の十一、ロシア言語篇に収録されている語は一二六二である)

 光太夫殿がコツコツと控えて負ったもので、オロシヤ語を知るに実に役立つ物ぞ。それを筆写させてもらった。

 見せて頂いた物で次に驚いたは、オロシヤの衣服にコインとか言う銭、お金であった。津太夫殿()等にこれから聞かんとするに出ても来る話の一つじゃろう。

 光太夫殿()お二人が事は(津太夫等)三人の耳にも達していたようじゃが、大分に違って伝わっているようじゃの。光太夫殿、磯吉殿のお二人は今も番町にある御薬園暮らしながら住まいも得て妻も子もいる。日本に戻って来て御上から許されての妻帯ぞ。また、生活に困らぬほどの金銭的援助を御上から今も得ておる。

 頭巾を被ってとはいえ時折この江戸市中を闊歩(かっぽ)して居るとも聞くが、吾の所にも来るし、今も好を通じておる。

 右仲殿はいずれ吾と一緒に御薬園を訪ねて衣服、金銭等の実物を見せて貰おう。目にして驚きもしようが、絵に出来る物は是非に絵図にして下され。

 御屋形様に奏上するに(絵図の)花を添えることにもなろう」。

「先生、それは(ずる)い。ここまで苦労せしは吾も志村殿も同じで御座います。

 その御薬園が住まいを訪ねるに、是非に吾も志村殿も同行させて下され」

「確かに・・。昌永殿の言う通りじゃの。

 日を揃えて、四人が一緒に御薬園に行く日を決めるか。

 世界の今を知るに、法眼様の纏めし物は実に貴重な物と思いしも、今に「(ひょう)民御覧之記(みんごらんのき)」も「北槎聞(ほくさぶん)(りゃく)」も秘中の秘とて御上(幕府)の蔵の中と思われる。

 とんと世に出ておらぬ。残念至極よ」

(北槎聞略が世間に知られることになったのは、昭和十二年(一九三七年)の末。歴史家、清泉女子大学教授、亀井(かめい)高孝(たかよし)氏の校訂により三秀社(千代田区内神田)から印刷出版されたことによる)