三 長崎藩の対応

「九月六日、軍船(ふね)は長崎に到着()たので()た。

 前の年の六月にオロシヤのカナスダ(港)を出帆()てがら、実に十六カ月の船旅で()た。

 軍船(ふね)は長崎の(みなと)から大分に離れで、伊王島(いおうじま)と聞く(どご)(とど)まりま()た。

 その日が文化(・・)元年(・・)の九月六日(西暦一八〇四年十月九日)になるどは、俺達(おらだづ)は後々に知ったことだべ(です)。

 年号の変わりなぞ、とんと知らねゃ(ない)ごどで()た。

 遠目にも異国の船だど分ったんだべ(分かったのでしょう)。

 その日(六日)の朝五つ(午前八時頃)にも、またその後にも長崎御奉行所の管理する船だべ(でしょう)、小旗を立てた番船(番所の船)が(オロシヤの)軍船(ふね)周りに駆けづげで来ま()た。

 九州も南の海の上だど言われでも、乗って居だ軍船(ふね)が何処をどう(はす)っていだのが分がんねゃがった(分からなかった)せいもあんだー(あるのです)、最初は本当に日本が、寄って来る船が日本の小船(ふね)がど嬉すさ半分、不安な気持ずで()た。

 それど()ったレザノフ様は俺達(おらだづ)に、船が傍に来だら仔細(すさい)を話せ。

漂流()て、オロシヤで生活()て居だど話すが良い。

 日本人(にほんずん)であるごどを分がらせる物を用意せよ、ど言うのっしゃ(です)。

最初の()()に乗っていだお役人様は二人で()た。問い掛げできた声に(なま)りはあっても日本語で()た。

 それを見で()って、喜びも悲()みも一遍に襲ってぎて、かえって言葉が出て来ねゃ(ない)のっしゃ(です)。

 周(まわ)りに居だ兵隊さんや外の乗組員に、早ぐ仔細を語れど促されま()た。

 咄嗟(とっさ)に思いついで、(おら)だけ船縁(ふなべり)がら後ろ向きになって手足を伸ば()て小舟(番船)に乗り移ったのっしゃ(です)。

(おら)の)(そば)に居だ左平ど太十(郎)が慌でで手を貸()て呉れま()た。

 番()()のお役人様は驚いでもいま()たが、一人が手を伸ば()(おら)の身を支えで呉れま()た。

 後(あど)はレザノフ様が(おす)えで呉れも()た通りに()た(した)べ、(はなす)()た。

 国許(くにもと)がら江戸への荷の送り状等を見せながらに、仙台藩が石巻(いすのまぎ)の御用船に乗っていだ、(あらす)()って岩城(いわき)沖で船が難破()た。六、七ヶ月も漂流()てオロシヤの国に(すぐ)われだ、凡そ十二年もオロシヤで生活()ていだ、オロシヤの王様にお許()を得でこの船に乗せで貰って来たど話()()た。

 俺は興奮すてだー。何が何だが分がんねゃ(分からない)ままに話すて、

降ろされだ縄梯子がら軍船(ふね)に戻りま()た。

 仔細が分がったど(かだ)ったお役人様の()()は、直ぐに(おか)に向かって行きますた。

んだども(しかし)あん(の)(どぎ)、、(おら)のズーズー弁が分がったべが、俺の日本語が本当(ほんど)に分がったべがど思いますたよ。

 後に駆けづけだ(()()の)お役人様達にも、難破すたごどがらオロシヤで凡そ十二年も生活すていだ(ごど)等を話()()た。

 それがらに、お役人様はこの伊王島(いおうじま)(あだ)りは風も波も強い、もう少()内波(うずなみ)(長崎港寄り)に(へや)って錨を下ろすが良いど(おす)えて呉れだのっしゃ(です)。

 オロシヤが(ごど)は、(おら)(はなす)っこすた(ほが)に、特別()ぐお尋ねになるごども御座(ごぜゃ)ませんで()た。

 後(あど)()()っこも程なぐ引っ(けゃ)すて行ったのっしゃ(です)」。

 津太夫が語りは長くなりそうだ。手元の己の記録を見ながら、お茶を淹れ直して呉れとお京に頼んだ。そうしなければ書き控える吾の方が追い付かない。

 志村殿を見れば、その目も進める筆も手もまだ机上にある。

 日本国地図を見ながらに伊王島が見当たらんと昌永だ。長崎(藩)が作った地図なれば伊王島は出ても来ようと言う。

 だが知らすべからずの姿勢にある各藩だ。領内の地図を入手するのは容易な事では無い。そう言えば、伊能殿(伊能忠敬)の測量は何処まで進んでいるのだろう、これまでの調査、測量は島々にまでも及んでいるのだろうかと思いもする。