第二十七章 長崎を語る

            一 一路長崎へ

如何(どう)じゃ。何処(どこ)に出かけた?」

「はい、お陰様で正月ら()い景色を見でも来ま()た。

 大槻様のお話に有ったように、(つが)げれば(さぎ)に愛宕社に行ぎま()た。

 たまげま()た(驚きました)よ。見だごどもねゃ(ない)あの石段。。

急な階段で百段も有ったべが。男坂(おどござか)と言うのだど聞ぎますた。

 境内(けいだい)に、()垣平九郎(がきへいくろう)のお話が掲げで御座(ごぜゃ)()たれば、感心()て読んで来も()()た。

 参拝()て、(おら)は無病息災の護符(ごふ)とお守りを買いま()た。

 その後に、池の鯉のゆっくり泳いでいるのを見っ(る)と、社殿に向かっていだ(どぎ)よりも今年(こどす)こそ何事もなぐ平和に有れど思いま()たよ。

 俺(おら)女坂(おんなざが)と呼ばれでいる坂を(くだ)りま()たが、左平と儀兵衛は(けゃ)りも男坂を選んだべ。

 それから増上寺(ぞうじょうず)の方に回りま()た。こっつ(こちら)の方も負けず劣らずの人の出で御座(ごぜゃ)ますた。

 俺の田舎(つが)ぐにある(ずい)巌寺(がんず)(松島町)や塩釜(すおがま)神社(ずんじゃ)を上回る()んだー。

お寺だと言うのに出店が一杯(いっぺゃ)並んで居ま()た。

 んだども(しかし)、浅草寺(せんそうず)のあの仲見世通りとは比べようにもなんねゃ(なりません)。

 ごった返すとはあの仲見世(通り)の人の波を言うんだべが(言うのでしょうか)。

浅草寺(せんそうず)境内(けいだい)は着飾って参拝(さんぺゃ)する(ひど)だけでなぐ、曲芸等を見物する人で一杯(いっぺゃ)ですた。大道芸に猿の曲芸に人の(かだまり)が出来でいま()た。

 正月も終わりだというのに、目出度(めでてゃ)三河万歳を久()ぶりに見るごどが出来ま()たよ」

 語りたくてうずうずしていた左平だ。津太夫の後に続けて言う。

「俺達は長崎でも、お役人様の監視付きだったども正月の(まず)を見させで頂きま()た。

決まりきった(どご)に押す込められで窮屈な毎日で居ますたげども(けれども)、その日ばがりは嬉()がったー。

 ここは何処(どご)の国だべがと思うような(まず)の飾りで()たよ。

 唐(から)(中国)の服だどいう姿格好を()(ひと)(だづ)(りゅう)の踊りど言うのも見ま()た。

 宝珠(ほうず)を追う龍は頭から尻尾(すっぽ)まで五、六間(一間は一・八メートル。約十メートル)も有ったべが(でしょう)。

 あの南海の船の中で見も()た龍の子の頭に、(たす)かに鹿の(つの)が生えでもいま()た。

その龍の踊りに、襖絵にだげ見でも居だ虎とか言う生き物の恰好を()た物の踊り、飾りを一杯(いっぺゃ)付けだ山車(だす)、人の前で何ぼにも変る顔のお面にたまげ(驚き)ま()た。

 初めで口にすた(あった)けゃ(温かい)饅頭(まんじゅう)、中に何の肉が肉もあれば(たけのこ)、葉っぱ(ネギ)が入ってもいますた」

 儀兵衛が言う。

「左平が言うように長崎にたまげ(驚き)も()()たげども(けれども)、

愛宕(あだご)(神社)に行っても増上寺(ぞうじょうず)に行っても、浅草(あさくさ)(寺)に行っても、やっぱ()日本ら()い髪型に着飾った女子(おなご)(すう)の歩く姿、羽織(はおり)(はかま)の皆々様に、風車(かざぐるま)(たこ)上げ、羽子板(はごいた)(こま)()で遊ぶ子、(はす)り回る子等を見で本当に日本に(けゃ)って来た。

 ここは日本なんだど歩ぎながらに涙を覚えだべ(たのです)。

(浅草の)仲見世の(通りの)飴売りの声も、煙草(たばこ)売り()の呼びかげる声も聞ぎながら(おら)は津太夫さんにも左平さんにも気づかれねゃ(ない)ように涙を拭ぎま()た。

 太十(郎)にも見せだがった江戸の街だー。

 ご配慮、有難う御座(ごぜゃ)()た」

 何時もは津太夫が言う感謝の言葉を儀兵衛が先に口にした。余程に嬉しかったのだろう。

 同じ浜の出(仙台領桃生郡(ももおぐん)深谷(ふかや)(むろ)(はま)出身)の太十郎を気遣う儀兵衛に好感を覚える。たった一日の休みだったが、吾が思っていた以上に良かったらしい。

 何時もの通り、朝早くから駆けつけて呉れもしたお京と末吉だ。お京の淹れ直したお茶を口にして(聞き取り調査を)始めることにした。

一昨日(おとどい)は八月も五日にカムチャッカがら長崎に向がったど言ったべが」

 吾が頷くと、津太夫がそのまま語りだした。

(大槻玄沢は、長崎のオランダ通詞達の和解(わげ)書上げ(報告書)にはオロシヤの暦で九月十日、吾が国の暦で八月七日カムチャッカ出帆と有ると指摘している。環海異聞巻の十三)

 

[付記]:第27章 長崎 は 400字詰め原稿用紙にして、凡そ150枚になります。3月初旬にはブログへの投稿が終わるでしょう。

 小生は今、第28章 多事多難(大槻玄沢50歳頃から60歳頃)を執筆している途中にあります。

 第29章 病の床から(回想、60歳頃から玄沢終焉まで)、第三十章 最終章(題は未定)と想定しています。それぞれの間におけるエピソードのレジメを作成し、文献調査等に当たっております。その傍ら執筆し、後で新たに知った重要事項等を挿入せねばと何度も何度も書き換えております。

 その進捗状況の想定を見るに、小生自身、途中にブログ投稿をお休み頂かないとダメかな、自信をもって発表出来ないなと思いもしています。それ故、3月以降に投稿をお休み頂くかもしれません。予めご承知置きおかれますよう連絡させていただきます。

 アメーバ事務局から送られて来るデータを見ますと、お陰様で30日間の小生のブログ訪問者数は日に110人前後で推移しており今月のアクセス数(読者)も200を超えております。多い時の月に約1200のアクセスが有ったことに比べれば5分の1に減っておりますが、令和3年4月から書き出したこの「小説・大槻玄沢抄」が最後まで完走できますよう、今後とも御支援をお願い致します。

 

 72歳の時、処女作「サイカチ物語」の中の「葛西一族の滅亡」を400字詰め原稿用紙200枚に押し込めて某出版社の新人作品募集に応募したことが有ります。見事に当選漏れでした。しかしその選者の一人の方の最終講評に、かなりの年齢になる方の応募があった、私はこの作品を第一席に押したが、事務局スタッフから年齢が行き過ぎていると反対された、と選考の裏話を漏らしていました。

 裏話が外に漏れることはありえないことで、余程、腹に据えかねた何かが有ったのでしょうか。

 小生に確かめることは出来ませんが、その時の作品が私の「葛西一族の滅亡」と勝手に想像しております。同時に、確かに72歳にもなる小生が新人作品募集に応募するのも可笑しい、どの新人賞も作家を目指す若い人の登竜門である。それを邪魔する必要もない。そう勝手に理解し判断し、以来、いかなる賞取りレースにも参加しておりません。

 今後とも宜しくお願い致します。