ス カムチャッカ
津太夫が語る。
「六月も末の頃の久すぶりの港ですた。
食料に水、薪などが欲すくての寄り道(寄港)ですた。
港の手前に何ぼが(幾つかの)小島が有って、そもそも港への入り口が分がんねゃ(分からない)。
とうとう、兵隊さんがナデジダ号にオロシヤの旗を掲げで空鉄砲を打ったのっしゃ。
慌てで現地の兵隊さんと船が出で来で、案内すてくれだのっしゃ(です)。
大洋から港まで何と八十里(一露里一〇六七メートル)もあったべ(でしょう)。港をバウラツケとか呼んでいだー。
(参考図―早稲田大学図書館所蔵本、環海異聞に載る「バウラツケガワの港」)
人家は三十軒も有ったべが。こごに兵隊が五、六百人も居る(駐留)ど耳にすてたまげだー(驚いたー)。
軍船(ナデジダ号)の人々は本国オロシヤ本土に近ぐもあれば、久々に陸地に上がるとて皆々大喜びですた。レザノフ様の手下は八十人も居ん(る)べ。酒を飲める場所に出がげだ者も、化粧の匂いを嗅ぐような所に出かけだ者も居ますた。
前にもどっかで話すますたが、カムチャッカも八月になっ(る)ど雪が降っぺ(降りだす)。港は一面氷づいで(凍って)すまうどの事ですた。オホーツクまでの千里を犬雪車(橇)で行ぐのだど聞きますた。
レザノフ様も軍船の上役にある御方も、食料に水、薪など補給する物の外に話す合うごども有ったべ(のでしょう)。連日忙すそうにすていますた。
地元の御代官様がレザノフ様の所に来た日も有んべ(有ります)。俺達に話っこの内容が分がるはずも無がっぺ(はずが無いのです)。
だども、耳にすたもので覚えでいん(る)のはあの港から日本の地まで二十一もの島がある、二十一番目の島が日本。十八番目の島までがオロシヤの所領どいう事ですた。十九番目、二十番目の島が何処になん(る)のが分がんねゃ(分かりません)」
左平が言う。
「俺も忘れられないごどがあん(る)べ。
レザノフ様が日本海の沖は波が荒くて、世界一の難所だと言うのっしゃ(です)。
また日本の船は造り方が手緩ぐて折々に破船するごどが多いど語ったのっしゃ。
確かにオロシヤの船の大きさも造りも見れば、そのようにも思うべ。
俺が船大工ならオロシヤに戻って教えで貰いでゃ(たい)。造船技術を学びたいど思いますたよ」
左平の言うことにもっともと思いもしたのか、津太夫が頷きながら語った。
「八月五日にカムチャッカを出帆すますた。
これからいよいよ日本に向かう。薩摩の海を回って長崎に向かうとレザノフ様に教えられだ時には、俺達は万歳万歳ともろ手を上げで喜びますたよ。
仲良ぐもなった兵隊さんの一人が、祝砲を打どうがど冗談を言いますた。
(俺達の)事情を知ってもいる水夫に外の乗組員皆が笑いながらも喜んでくれだのっしゃ(です)。
それもまだ嬉すがったー」
数えてみれば、カムチャッカ滞在は凡そ三十日余になる。左平は、ナデジダ号の(水先)案内人(案針役)は日和が良ければ二十日、かかっても三十日で長崎に着くと言ったと語る。
