朱(あか)(せん)、日付の書き込まれたオロシヤの海路地図を改めてみると、マルケサス島どころかサンペイツケという島も見当たら無い。吾等の手元の地図にも無い。

 オロシヤ文字のサンペイツケの綴りは如何(どう)あるのか、聞きもしたが三人共知る所ではなかった。

 サンペイツケは、南洋に有るサンドウィク島の事か。綴りは分かりかねたが発音が似ていないか。三人の聞き間違い、覚え違いに思える。

 また、左平は、マルケサスから二十日余り(二十一日)してサンペイツケに着いたと言ったが、海路地図にはオロシヤの日付で六月二十八日、吾が国で五月二十一日に到着したと見えている。

 サンペイツケ島はサンドイッチ島の事なのか、これもまた緯度や測量から推し量って(はざま)殿(幕府天文方所属、友人、間重富)に検証してもらう必要がありそうだ。

(環海異聞巻の十三には、「サンペイツケという名はない。サンドウィク島に船を寄せたと見える。この名の覚え違いで有ろう」とある。

 また、大槻玄沢は後に間重富の教えを受けて、「間殿が、赤道を二度経過すると言う渡海はオロシヤ人と雖も稀有(けう)の事で、我が東方の国民においてはどう考えても開闢(かいびゃく)以来千古未曽有のことであると言った」、と記している。

 なお、サンドイッチ島はハワイ諸島の旧名である。大槻玄沢はイギリスの海洋探検家キャプテンクック(ジエームズ・クック、イギリス海軍の勅任艦長)がハワイ諸島を発見したことと、クックの経済的支援者であったサンドイッチ伯爵(イギリスの貴族)にまつわる島の名の謂れを知ることも無く環海異聞には「サンドウィク島」と書き残している)

 思うに、西洋諸国の船は、南アメリカの南海を回ってマルケサスを目標に西の方角に舵を取り、サンドウィク島を目標にして北へ方角を定め、方位を転じて吾が国、日本や唐やインドへの進路を取っている様に思えてくる。

 オロシヤ人もこれに(なら)ってマルケサスに回り、サンドウィク島から大海原を北上し続け、カミシャーツカ(カムチャッカ)に至ったと考えられる。実際、津太夫は、ネブァ号はこのサンドウィク島で別れて北アメリカ大陸の北の先、オロシヤ領に向かった、レザノフ様と俺達四人を乗せた軍船(ふね)は一路カムチャッカに向かったと語る。

 北アメリカのオロシヤ領は何と言うと聞けば、分らないとの応えだ。それ以上に聞いても答えは出なかろう。島(サンドウィク島)の在った位置を知るにも,海路を知るにも検証には間殿等天文方の知識も知恵もお借りする必要がありそうだ。

 儀兵衛は、快晴の夜に見る海の上の満天の星は言い表し(よう)のないほどの美しさだったと語る。それに頷きながら左平は、左の方角に日本が()ると聞きもして何度も目を凝らしたが何も見えなかったと言う。

 海路地図にはサンドイッチ島出帆(・・)はオロシヤの日付で六月二十八日、吾が国で五月二十一日。カムチャッカ着岸(・・)はオロシヤの暦で八月三日、吾が国の暦で文化元年六月二十八日とある。昌永の指さす朱線を見ながら、またまた唸ってしまった。

 寛政五年(みずのと)(うし)(一七九三年)の冬、江戸に向かった乗組員十六名の廻米船は難破し、七、八カ月漂流して極北の(へき)(とう)オンデㇾーツケ島(アリューシヤン列島の中の島)に流れ着いた。

 漂流民はそこに住むこと凡そ十カ月。(きのと)()の年(一七九五年)四月にオロシヤ本国に帰るという船に頼み込んでカムチャッカ半島を右に見ながらオロシヤ本土、オホーツクに上陸した。

 以来、ヤクーツク、イルクーツク、ペテルブルグ、正にオロシヤ本土縦断を体験して生活し、そしてあのカナスダの港から四人だけが日本に向かった。

 オランダ、イギリスと廻り、海洋に出てアフリカに至り、南アメリカもブラジルに至り、南海の果ての岬を回ってマルケサスと言う島に至り、そして再び赤道を通過して大海原のサンドイッチ島から北のカムチャッカに至った。

 彼ら四人は世界を一周してきた、四大州をぐるりと回って来た。己の頭の中を整理するだけで溜息が出る。検証しなければならないことが多すぎる。