シ サンペイツケ島(サンドイッチ島)

 左平は、その酒宴から二十日余りもして、サンペイツケと聞く島(環海異聞にサンぺイツケ、サンドウィク島の表記)に船が寄った、そこもマルケサスと同様に暑い島だったと言う。

 だが不思議なことに、昼間に島の港に寄っても夜には沖合に出て船を停泊させるの繰り返しだったと語る。

 津太夫はその訳も知っていた。

(おら)は不思議に思って、何故にこんなにも(このように)船を出()入れすんのがど、案内人(水先案内人、案針役)に聞いだのっしゃ(です)。

 そすたら(そうしたら)、この(すま)に先にフランス人が来ているど言うのっしゃ(です)。フランスと言う国は形ばかりの交易でオロシヤに心服()てねゃ(いない)。んだがら(それ故)、何時(いづ)(いくさ)仕掛(すかげ)で来ん(る)のが()がんねゃ(分からない)。上陸も()なければ、沖合に避難()てもいんだ(いるのだ)との(ごど)ですた。

 双方とも祖国から遠く離れでもいんべ(いるでしょう)。お互いに助け合うごども必要だべ(だろう)ど思うに、何でこんな南の果てに来てまでお互いに気を張って居なげればなんねゃ(ならない)のが。

 俺(おら)は、何だべーど思いますたよ」

 津太夫の語るは最もな事と思える。長崎の友(志筑忠雄)の「鎖国論」を思い出した。

(志筑忠雄は、カピタンの江戸参府に二度随行したドイツ人医師、ケンペル(エンゲルベルト・ケンペル)が書いた「日本誌」の和蘭(おらんだ)訳本を更に日本語版に翻訳している。

 自身は閉鎖的な日本を肯定も否定もしていないが、その翻訳から後に志筑忠雄の「鎖国論」と語られるようになった。

 ケンペルは、日本を世界に紹介するに自身の日本誌に次の様に記述している。

『東の海の果てに日本と言う島国がある。聖職者的皇帝(天皇)と世俗的皇帝(将軍)という二人の支配者の下で他所(よそ)の国と交流もせず、それでいてそこに住む住民は豊かな生活を楽しんでいる。国を閉じてもいれば他国と余計な(いくさ)をすることもない』)

「サンペイツケと聞く島で見たこと、聞いた事を教えて呉れるか?」

 左平が応える。

「へえ。サンペイツケはマルケサスよりも大ぎな(すま)()た。

 だども(しかし)、大きな山とてねゃ(無い)がったー(有りませんでした)。

気候はマルケサスと変わんねゃ(変わりない)。(あづ)(どご)()た。

 その島の(ひと)(だづ)もマルケサスと同ずで何をすん(る)のにも小舟を利用()ていだべ。

 男も女も肌の色とて同()ようなものですた。男はざん切り頭で、女は髪を長ぐ()ていますた。背丈は日本人と変わんねゃべ(変わらなかったでしょう)。

 木の皮なのか男も女もそれを腰に巻いで前を隠()ていま()た。

(参考図―早稲田大学図書館所蔵本、環海異聞に載る「サンペイツケ島男女図」)

 奇妙なごどが有りますたよ。男も女も大人は必ず前歯を二本抜いでいん(る)のっしゃ(です)。何故(なんで)だが分がんねゃ(分りません)。

 理由を聞くほど親()ぐも無げれば聞きも()ませんで()た。

 軍船(ふね)の(水先)案内人が、この海は日本を前に()た海だ。

サンペイツケ(島)は日本の国(国土)に近くも有るのだど、地図(世界地図)を前に(おす)えでくれだのにはたまげ(驚い)だー。

 島は海ん(の)(なが)ちっ(・・)こぐ(・・)(小さく)在っけども、指さす日本の国だと言う(どご)がら見れば遙か南東に当たる方角で()た。

 嬉()ぐもなりま()たが、となれば先にも寄ったマルケサスは何処がど探すも()()た。

(水先)案内人が言うには、マルケサスは赤道から南に凡そ一五〇〇里、サンペイツケもまた赤道から一五〇〇里と言うのです。

 俺達はマルケサスから凡そ三〇〇〇里(一露里は約一〇六七メートル)も北の方角に進んで居だので()た。

 日本に近づいたのだ、もう少()だど期待を持たせる話で()たが、マルケサスの島は地図には無がったのっしゃ(です)。

 サンペイツケ(の島)では食料どなる豚を買い入れで、大()た泊っごど(滞在するごと)もなぐ出帆()たー(したのです)」

 

[付記]:ナデジダ号の艦長、クールゼンシュテルンの航海日誌にはサンぺイツケ島に行く前に南米、ボリビアに寄港したことが記されている。大槻玄沢の「環海異聞」にはその聞き取りをしたとの筆記が無く、文献調査力がない小生は環海異聞の伝えるままに創作しています。