コ 難所も難所の岬越え
エカテリナを出て(出帆して)更に南だと聞く方に船は走った。裸体でも耐えがたい暑さだったのに、先へ進むほどに海上はだんだんと寒くなったと津太夫が語る。
「へえ。水先案内人(按針役)は、この先、岬をぐるりと回って北へ向かえばまた暑くもなる。もう一遍、赤道を通過するごどになると言うのっしゃ(です)。
んだども(しかし)、その前が問題だと困った(憂鬱な)顔をすたー。
聞けば、危険が伴う難所中の難所の岬。年がら年中山降しの強風が吹き遭難の多い極寒の海だと言うべ。
前に山村様のお話にあった。南アメリカの南端(岬)だー。
潮の流れも速ければ、大風にあっても無事に越えねばなんねゃ(ならない)ど言うのっしゃ。(です)。
船が潮の流れや風に翻弄されで流され、氷の海に閉ず込められで動げなぐなんだど。そうなったら食料も尽きて死ぬだけだど言うのっしゃ(です)。聞いでたまげだー(吃驚したー)
俺達四人誰もそったらごど(そのような事)経験すた者などながんべ(無い)。そうなんねゃように(そうならないように)気を付げで越えねばなんねゃ(ならない)ど言うのっしゃ(です)。
たまげ(驚き)ますたよ。初めで聞く所であっ(る)けど、あの一晩中暗くなんねゃ(ならない)オロシヤの冬、極寒の地ど同ず所が南の果てにも有んのっしゃ(です)。聞いでたまげだー(驚いたー)」
「目の前に三人が居るのだから、無事にその岬を通過した、することが出来たと言うことになるのかの」
「んだー(その通りです)。何年船乗りをすでいでも緊張する事(体験)だったべ」
思い出したか。今にもほっとした顔をする津太夫だ。話終えたからではあるまい、実際に味わった恐ろしい体験を思い出し、潜り抜けてきた安堵なのだろう。
話からして津太夫達は地球が丸いということを知っていても、緯度という物があると知らないのであろう。赤道の緯度が0。それを起点にして北にも南にも太陽の熱も明かりも届かない極点が有るとは知らないのであろう。
天文方に在る間殿(間重富)も高橋殿(高橋景保)も、その教えを受けた伊能殿(伊能忠敬)も、一つの地点を指して言うに北緯何度何分とか言っておった。目の前の三人が、南北の極下に近い土地や海まで行って来たことは未曽有の奇中の奇である。
(大槻玄沢は『環海異聞巻の十二』の中に、「漂客らが南北の極下に近い海まで、両軸を究めたことは未曽有の奇中の奇と言うべきである」と書き残している)
「岬の名を何と言っておったかの?」
「へえ。ゴリノメスと聞きました。寒いこの崎さえ回れば北へ向かう、また暖かくなるとの事でした」
南緯六、七十度ものゴリノメスなのだろう。地名の綴りの確認と共に、その位置が凡そ南緯何度何分になるのか間殿に教えて頂くことがまた増えもした。
大人しい儀兵衛はここでも津太夫が語るに頷くだけだったが、横から左平が付け足した。岬を回る時、山の中から絶えず火柱が立っているのが見えたと語る。昌永に借りもした和蘭の地理誌に載るヒュールランド(火の地)であろうか。
目の前に置いた地図を見れば、オロシヤの日付で一八〇四年四月八日、日本の日付で二月二十八日までにこの岬を無事に通過出来たようである。エカテリナを出帆から凡そ六十日余にも成るか。日付の確認、検証に当たっては後に間殿の知識をお借りしよう。
切れの良い処と思い休憩の時にした。お京がお茶を淹れながら、昨日に田舎から届いた物を持参した、食べましょうと語る。この時期、田舎から届いたと聞くからに沢庵がごと一関からの漬物を思いもした。
だが、末吉が開いた風呂敷包みから出て来た物は魚のすり身で保存食と言う物だった(後に明治時代初期になって蒲鉾と呼ばれる)。
手に取りやすいように口にし易いようにと、切り込みがしてある。だが、三人はまじまじと見るだけで手を出さない。
「如何した、食べるが良い」
涙だ。津太夫も儀兵衛も頬を流れる涙を拭おうともしない。
左平がとうとう嗚咽交じりに泣き出した。田舎に帰りでゃ、早く帰りでゃと言う。
思いもしていなかった事態に吾も唇を噛んだ、吃驚した顔のお京だったが、今はしきりに涙を拭っている。
昨日の語った約束を守らねば、昨夜に泊まり込みをまた始めたばかりだが、聞き取り調査を一日も早くに終えねばと思いもしてくる。