話の続きを促すに、津太夫が応える。

「ガラフ様から王様の前に出る日が決まったら即座に(おす)えるどの(ごど)()たが、(王様の)謁見の際には日本人(にほんずん)であるど(わが)る姿形にすろ(しなさい)、日本人が普段着ている物を着ろ(着なさい)との事で()た。

 十年も経ってんだー(いるのですよ)。俺達(おらだづ)は誰ももう()(ふる)()て日本の着物など持っていねゃがったのっしゃ(いなかったのです)。

 そう応えで、たまげ(驚き)ま()たよ。

 何と、羽織、袴を用意するとの事でエノスタノコレケ(環海異聞に「エノスタノコレケ」の表記。以下、エノスタノコレケ)という役所に連れで行かれだのっしゃ(です)。

 そこで、十人それぞれが(たけ)(ゆき)の寸法を取られだのっしや。(です)。

 羽織はおりはかまおび足袋たび等までも揃えるど聞いで唖然とた」

 聞いている吾等とて驚く。それほどまでに日本にかかる情報がオロシヤには有ると言う事か。日本の文物(ぶんぶつ)をも揃えられるのかと思わず己の耳を疑った。

 五月十六日、王様にお会いする当日朝早くに前頭(まえがし)()()り、月代頭(さかやきかしら)となって装束を整えたと聞いてなおのこと驚いた。

 かつて、女王様(エカテリーナ女王)との面会のために、キリロ・ラクスマン(大黒屋光太夫の面倒を見て呉れていた軍人でもあり鉱物学者)が態々(わざわざ)()(らん)西()の仕立て屋に頼んでオロシヤの上下服や靴までも準備した、吾の着る物、靴等を揃えて呉れたと光太夫殿(大黒屋光太夫)に聞いていたことと大違いだ。

 体裁よく聞こえもするが、津太夫達はまるで見世物ではないか。女王から王帝に代わって、オロシヤの対処の仕方も考えも変わっていたと言う事なのか。

「話が()れるがの、ぺテルブルグでも何処でも、キリロ・ラクスマンという人物の消息は聞かなかったかの?

 伊勢(神昌丸)の光太夫殿(大黒屋光太夫)が大変世話になった人物じゃ」

へえ。ネモロ(根室)に光太夫殿等を送り届げだど聞ぐアダム・ラクスマンという方は先年、ペテルブルグで病死すたど聞きますた」

「えっ、息子が死んだ?」

「んだ。詳すい(ごど)は分がんねゃ(分からない)。

 その父、キリロイチ(キリロ・ラクスマン)どが言う方も巳年(寛政九年、西暦一七九七年)にイルクーツクに向がう途中のトボリック(トボリスク)どいう(まず)で病死すたと聞ぎますた。

 学者で虫を集めて薬にすていだ。エカテリーナ女王の信任(すんにん)の厚い方だった。

 日本に(けゃ)りだいど言う光太夫殿をぺテルブルグに連れで来た方だどお役人様から聞かせでいだだぎま()た」

 まさかと思いながらに聞きもした事だったけど、驚いた。後日、光太夫殿にラスクマン親子の消息を聞かせねばなるまい。

(キリロ・ラクスマンは大黒屋光太夫等の日本帰国に当たって一番に世話をした人物である。その彼が当時のオロシヤのエカテリーナ女王の許可の下に、光太夫等三人の送還に併せて第一回オロシヤ親日使節団として子息、アダム・ラクスマンを松前に送り込んだ。

 しかし、日本は鎖国の世であり、アダム・ラクスマンは松平定信の長崎入港を許可する「信牌」を手にするだけで本国に帰還した。

 その後に、石巻若宮丸の漂流民を知ったキリロ・ラクスマンはイルクーツクの貿易商人等と共にエカテリーナ女王に仙台漂流民送還計画を上奏する。これが初期の仙台漂民移送計画と言われるもので、漂流民十四人がイルクーツクに揃う以前の事である。

 しかし、貿易商人はそれぞれに利益に係る思惑があり、イルクーツクの商人間で紛争、商団分裂の抗争に至る。その紛争の整理がつかないままにキリロ・ラクスマンは他界(寛政七年十二月七日、一七九六年一月五日)した。 

 キリロの上奏を受けたエカテリーナ女王は仙台漂流民を送還し、再度日本との通商関係を構築するよう部下(シベリヤ総督)に命令する。

 しかし、その女王もまた脳梗塞で急死(寛政八年十月十八日、一七九六年十一月六日)し、計画も命令も頓挫した。

若宮丸の漂流民がイルクーツクで凡そ八年もの生活を余儀なくされた大きな裏の事情である。このことは「北辺探事」に記述されている)