タ イルクーツク発、ぺテルブルグ道中記③
「モスクワからペテルブルグまで七百里(露里。約七四七キロメートル)と聞きますたが、たまげだ(驚いた)の何の、その間の道は行けども行けどもこどごどぐ敷石なのっしゃ(です)
まるで平地の如すで言葉もねゃ(無い)ほどに揺れが無ゃのっしゃ(のです)。数百里の路程ど聞いで足腰がまた痛くもなっ(る)か、尻が痛ぐもなっ(る)がど思ってもいだに今までの道どは丸で違っていますた。
すかも、路地の右左は広々とすた原っぱばがりで田畑が無ゃのです。山が遠くに見えるだけですた。
道中にあった川は広かんべ(かろう)が狭かんべ(かろう)が立派な橋が出来でいん(る)のっしゃ(です)。御国(日本)で見る渡す(渡し舟)などと言う物は有りませんですた。
馬車は俺達を乗せでモスクワから北の方角に向かっていますた。七夜(七日)もすればペテルブルグと聞いでもいますたけん(れ)ど、実際に要すた日は何日が分っていねゃ(居ません)」
「ペテルブルグに着いたのか?」
(参考図―難破船若宮丸の漂着したオンデㇾツケオストロからぺテルブルグまでの道―筆者作成)
「へえ。(馬車に)乗ったまま、ニコライ・バイトルイチ・リュマンゾフ様と言う方の御屋敷と言うのが、お城と呼ぶのが大層立派な石造りの館に連れで行がれますた。
疲れが如何のよりもペテルブルグに着いだ喜びど、本当に日本に帰れん(る)べがど不安にもなりますた。オロシヤでの生活凡そ十年に涙っこも覚えますた、複雑な気持ちだったべ((のです)
屋敷の広さが二、三丁四方もある敷地に先ずはたまげだー(驚かされました)。
(日本もロシヤも一丁の長さは約百九メートル)
三重の門ですた。第一の門は大そう立派な門構えで、彫り物で飾られだ鉄の扉だー。
周りも腰まである積み上げた石塀で、その上に鉄で拵えだ柵がぐるりどあん(る)のっしゃ(です)。
第二の鉄門の両脇には鉄砲を持った番兵が居ますた。第三の門は石を積み上げだ門で、御国(日本)のお寺の唐門の様でも有りますた。
(人の)出入りする所が分厚い板で出来だ重々すい扉で、中に入るど左肩に薙刀のようなものを下げだ者が居ますた。
その者が訪ね来た者の取次ぎをするのっしゃ(です)。
後で教えられで分がった事ですたが、リュマンゾフ様は日本で言う御国の御家老様になる人ですた。家の者、家来達に、ガラフ様、ガラフ様と呼ばれでいますた」
「何故にガラフ様なのか、その意味が分かるか?」
津太夫も左平も儀兵衛も首を横に振った。
「聞きもしておれば、「ガラフ」は和蘭の言葉での、「ガラーフ」であろう。
王様を囲むことのできる親族、家臣だけが頂ける称号、呼び名じゃ。
国(日本)の言葉にして、何々侯(公)と言うのと同じじゃ。
リュマンゾフ・ガラフと呼ばれているのを耳にしなかったか?」
津太夫は驚いた顔をした。。
「へえ。確か王様との謁見の場でそのように呼ばれていだど耳にすてもいます」
その一言でガラフは和蘭語のガラーフ、侯(公)で間違いなかろう。昌永の顔を見ると、目を合わせただけで頷きもした。
「八年もすて(イルクーツクに居る)俺達に呼び出すが掛かったん(の)だがら、呼び出すは御国(オロシヤ)の政の一つではと、途中、馬車の中でも宿でも皆でうすうす話すても居だごどですた。
大層に立派な御屋敷ですたよ。何処もかすこもガラス張りの廊下に壁。部屋を仕切るにも硝子ですた。(環海異聞には「硝子障子」とある)
着いだその晩に、使者の言うどおりに着替えでガラフ様の前に召す出されますた。
労いの言葉の後に豪華な食事ですた。酒も奨められもすたけん(れ)ど、舌にかなりきづがったのど疲れもあったす緊張もすていだがら、何を飲み食いすたのが後になって思い出せねゃ(ないのです)。
俺は、ガラフ様の着ていだ服の襟元にも右胸にも大すた(大層)立派な飾り物(徽章、勲章)が付いでいだのが印象に残ってんのっしゃ(います)」
