ソ イルクーツク発、ぺテルブルグ道中記②

 興奮を覚えた。津太夫等も光太夫(大黒屋光太夫)達が同様に何日も苦労してペテルブルグからオホーツクに戻った。そこから(アダム・ラスクマンに交付した)交易の信牌を信じてレザノフと共に長崎に来たものと今の今まで思っても居だのだ。

 それがまさかに、直ぐにも日本に行くと思って乗った船はペテルブルグに近いカナスダ(環海異聞に「加那斯達」の表記。以下、カナスダ)という港からバルト海を下り、凡そ二年もの長い、長―い航海の始まりだった、イルクーツクにもオホーツクにも戻らずヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ等を周って来たと言う。

 本人達は簡単に言うが、()いた口が(ふさ)がらないとはこの事か。御屋形様(仙台藩主、伊達周宗)の引見の場では帰国の順路にカムチャッカから海路長崎に着いたと聞きはしたが、彼らの言うことが(まこと)なら地球をぐるりと回ったうえでのカムチャッカから海路長崎と言うことになるではないか。

 津太夫の顔を見直して、それから昌永と顔を見合わせた。志村も筆を止め、驚きの顔だ。松原だけが得たり顔だ。そして吾よりも先に聞いた。

「何処に行かれたかの?、(くわ)()いごどは後に聞くと()て、先ずは艦船(ふね)で行った国々、寄った島々をお聞かせ下され。

是非に(絵に)描きたい」

 笑いだした佐平と儀兵衛だ。突拍子もない笑いだと思いもしたが、津太夫の言う、「す、す、す」の(なま)りが、いつの間にか松原が語る言葉にも聞かれた。

 地球図をみて津太夫の顔を見て、昌永が目ん玉を()いている。聞きもせずばなるまい事がまたも増えもした、三人の、否、四人の解放が、帰郷がまたまた遅れることになる。

 しかし、ここはまずはぺテルブルで何が有ったのか、オロシヤの王様を拝謁するに至るまでに何があったのか、先に聞きもする必要がある。

 己の気をこそ静めねばなるまい。

「帰国の事情に何が有ったのか、

 何故に四人が世界を巡ることにもなったのか、後に聞きもしよう。

 まずは、ペテルブルグまでの続き、道中記を聞かせて呉れぬか。

 ペテルブルグまで二千二百里のぺルミという(まず)に着いだ。銀三郎が麻疹(はしか)(かか)った、落伍(らくご)したとの話だったの。

 その先を話して呉れるか」

「へえ。ぺルミから何里先になるのが分がりませんが、ガサンという所に着きま()た。

(環海異聞に、ガサンは志那(唐、中国)で言う「加山」の事であろうと大槻玄沢自身の推測が記述されている。以下、ガサン)

 車(馬車)の破損修理のため一泊()たのっしゃ(です)。

 ぺルミど同ずで家々は皆石造りで、賑やかな活気のある城下ですた。

 皮で出来た物の(たぐい)(皮革製品)が名産どがで、ガサンはオロ(・す)ヤ第一の皮物(かわもの)製造が(どご)だどお聞き()()た。

 そのガサンがら千里(露里。約一〇六七キロメートル)もの先がモスクワです。

 モスクワには四月の中頃に到着()たど思いますが、昼夜分けねゃ(ない)馬車の旅で時の事が良くに分らなぐなっていま()た。」

 左平も,儀兵衛も頷いた。

「モスクワは石で出来た町ですた。

 家々も石造(いすづぐ)り、歩道も石だべ(です)。敷石(すぎいす)なのっしゃ(です)。

 道幅(みずはば)とても馬車を五台横に並べでそれでもなお歩く(どご)が十分に広いのっしゃ(です)。

町の大きさはこれから行ぐ(あだら)()(みやご)、ペテルブルグよりも倍の大きさだー。

 四里(約四キロ)四方あるど使者(すしゃ)説明(せづめい)を聞きながら、何処(どご)を見でも只々唖然とすま()た。広ーい、広ーい大きな町です。

(まず)の入り(ぐず)の高台になんぼ(幾つ)もの大砲がデンと並んでいま()た」

 オロシヤが日本に攻めて来るとかつて聞きもした。大砲が事、後に詳しく聞いてもみよう。オロシヤの戦力が如何(いか)な物か推し量るに役立つかも知れぬ。堀田様にご報告するに良い情報なのかも知れない。

 津太夫の話が続いた。

「お寺が千六百もあると聞いでたまげ(・・・)だー(驚いたー)。

 使者のお役人様は、全部見て(まわ)ん(る)のに三年、四年はかかるど笑っていま()た。ここ(モスクワ)でも宿に一泊()たのですが、部屋ごどに驚くほど立派な()(どご)(暖炉)が据えられでありま()た。頑丈(がんじょう)そうな上に、()(どご)と雖も表面は色鮮やがな花鳥等の絵図で飾られでんのっしゃ(いるのです)。

 見れば、それに準()て家具、諸道具も目を見張るほどに立派なもん(の)だー。美を尽ぐすとはこのごどだべー(でしょう)。

 食事(しょくず)はど言えば蒸餅(環海異聞には「パン」とフリガナを付している所もある)に牛、豚、鶏肉。出される(すな)は大概同()でもその味は格別で()た。

 鈍感な俺達も、何故にこごさ(に)宿泊(とまん(る))のが、こごにきて特別な扱いをされでいるのだどうすうす気付いだべ(のです)。

 モスクワの城代(じょうだい)は今も国王の近親(きんすん)でお国の高い(くれゃ)に在る方だど聞いで、町の立派なごどにも納得も()()た」

 聞きながら、モスクワは世にいう所のムスコビヤのことぞ、唐の国では「莫斯哥(むすこ)未亜(びあ)」と音訳しているのだと口にしたくなったが()めた。

 吾よりも地理の事を良く知る昌永が傍に居るのだ。オロシヤの事を近年、ロシヤと言うのだと昌永に教えられもした事だ。言えば()()を前にして己の博識を自慢しているようにも聞こえよう。

 また、モスクワが北緯五十五度半にあることとても、かつて地球絵図を見ながら(はざま)殿に教え頂いた事だ。

光太夫殿(大黒屋光太夫)に聞きもした、エカテリーナ女王はモスクワとペテルブルグの新旧の都府に半年ずつ滞在したとの話も思い出した。