「へえ、乗った馬車は昼夜に関係なく走り続ける物で()た。

 一日に百三十里(約百三十キロ、一露里は約一〇六七メートル)から百四十里(約百四十キロ)も前に進んだベど思う(と思います)。

 (乗り)慣れねゃ(ない)馬車に、気持ちが悪ぐなった左大夫と清蔵で()た。

 船の揺れを何度も経験()でいる二人だー。馬車の揺れにも慣れればすぐに(やまい)()(なお)るど最初は思って居ま()た。

んだども(しかし)、出発()て二日目。三月も九日の日だったべ。二人は見るがらに旅を続けん(る)のが無理な様子だったー。

 使者(すしゃ)に快気次第(すだい)(あど)においおい送り届げで呉れるよう頼んで、着いだ駅で二人を降ろ()て貰いま()た。駅の名前(なめゃ)を何と言ったが・・・、覚えでねゃ(おりません」

 語尾を引きずりながら左平と儀兵衛を見た津太夫だったが、二人もまた首を横に振った。

「後で聞いだどごによっと(よれば)、(病気は)良くもなりもせず左大夫と清蔵はイルクーツクに送り返されだど聞きま()た。

 馬車は用便の外は止まるごども()ゃぐ(無く)、(むす)(もず)(パン)を食べん(る)のも馬車の中で()た。

 千里(露里。約一〇六七キロメートル)も走ったベが(でしょうか)、クラスノヤルスク(環海異聞には「カラスナヤリツケ」の表記。以下、クラスノヤルスク)と言う所に着いで暫ぐ休憩すたべ(したのです)。

 使者はその(まづ)のお役人様に何が用事(ようず)があったようで()たが、俺達(おらだづ)にはやっとに足腰(あすこす)の羽を伸ばせる(どぎ)()た。

 其処(そご)はイルクーツクよりも寒気が厳()く、街の中に(ゆぎ)っごが無がったけども川の氷はまだ解け()ゃ(ない)ままで()た。

 出発()たのですが、この(あだ)りがらは先ほど左平が言った粉を()ぐどいう風車が多ぐ見られま()た。

(参考図―早稲田大学図書館所蔵本、環海異聞に載る「風車」)

 それがら馬車は十日ばかりも走ったべ(でしょう)。四月に入っていだのがも知んねゃ(知れません)。日が暮れだど思うど間もなぐに東の方が明るぐなって太陽が出で来んのっしゃ(出て来るのです)。

 一晩中、ぼんやりと物が見えもする暗さで()た。驚きま()たよ」

 津太夫の語りに左平も、儀兵衛も頷く。(吾は)それが異国の本でも知る「白夜(びゃくや)」かと思いもした。

白夜(びゃくや)かの?」

 吾の言葉に反応したのは昌永だけだった。

「そごがら千五百里(露里。約一五七〇キロメートル)()て(行って)トムスク(環海異聞には「ドンスケ」の表記。以下、トムスク)とが聞ぐ(まず)に着きま()た。

 そごに居だのはオロシヤ人ばかりでは()ゃ(ない)のっしゃ(です)。賑やかな(まず)で、それが印象に残ってんべ(います)。

 俺達(おらだづ)と同ずで頭の毛が黒いげども坊主頭。多ぐは帽子を(かぶ)っていで眉毛が濃くて、韃靼人(だったんずん)だどが聞ぎま()た。商売、取引に来ているのだと聞いだべ。

 トムスクがら更に進んでエカテリンブルグ(環海異聞には「エカテンボルカ」の表記。以下、エカテリンブルグ)とがいう町。そごを過ぎでペテルブルグまで二千二百里(露里。約二三四七キロメートル)と聞ぐぺルミ(環海異聞には「ぺリマ」の表記。以下、ぺルミ)という(まず)に着いで、突然、銀三郎が大熱を出()たのっしゃ(です)。

 全身に小さなブツブツが出で顔までが腫れ上がる物で()た。ぜーぜーと呼吸が切羽詰まって、旅を続げん(る)のはとでもとでも無理に思えま()た。

 皆ど話()合って、銀三郎をその()に留め置くごどに()()た。

 イルクーツク出立(すったづ)の折、麻疹(はすか)流行(はや)りが噂されでおりますたればそれになったのではとの(はなす)になりま()たが、麻疹がどれほどの病気なのが誰も()りませんで()た。

 病が治り次第(すだい)、都に送り届げで呉れるよう頼んだのは言うまでもねゃ(有りません)。

 んだども(しかし)、その後、銀三郎の生死のほどは如何(どう)なったのが(わが)んねゃ(分らない)。

 そればかりが、先の左大夫と清蔵が(ごど)もその後如何なったのが、それもまた(わが)んねゃのっしゃ(分らないのです)。

俺達は今も気になっ(る)(とこ)だー(です)」

「うん?それは如何(どう)いう事だ。

 其方(そなた)(たち)はペテルブルグで王様の謁見(えっけん)を受けもしてその後、何がどうあれ帰国を許された後イルクーツクに戻り、それからヤクーツク、オホーツクを経て蝦夷地を右か左に見ながらレザノフ(オロシヤの親日大使)の艦船(ふね)で波枕、長崎に(くだ)ったと思が・・・。

それ故、途中、イルクーツクにても三人の消息は知れたと思いもするがの?・・・」

 目の前で三人が一緒に首を振った。津太夫が応えた。

 「へえ、俺達(おらだづ)は王様の謁見で、帰国のお許すを貰えれば良がったのっしゃ。

 それで、(俺達を)日本に送り届けで呉れる船が無事(ぶず)に見つかれば良がったのっしゃー(です)。

 (伊勢の)白子(すらこ)の光太夫さん(だづ)が蝦夷(地)のネモロ(根室)に(けゃ)った、日本に帰ったと聞きも()て居だれば、俺達(おらだづ)(なげゃ)(みず)ど雖も(ペテルブルグから)オホーツクまで戻って、そごがらオロシヤにも近い日本の何処ぞに、陸地(おか)(あが)れるど思っていだのっしゃ(です)

 ネモロ(根室)が松前の地(松前藩の領地)までオロシヤの船が送ってくれるものど期待も()ていだのっしゃ(です)」。