・それぞれが働いた

 遠くを見るような眼をした津太夫だ。

「イルクーツク到着は、思いも()ていながった(なげ)ゃー八年(はずねん)の始まりで()た。

(御上から)貰う銭子に制約があったものの、八年(はずねん)()てば皆が思い思いに暮ら()ようになってもいま()た。

 それぞれが働いで生活を()てで、それぞれの事情(ずじょう)が生まれでもいだのっしゃ。

 皆が周りのオロシヤ人の倍は働いだべ(働いたでしょう)。建物を造る日雇いの賃仕事がら漁師の(あみ)造りを手伝い、一緒に漁に出掛げだ者も居んべ(居ます)。

 酒(さげ)この小売りを生業(なりわい)()た者、小麦粉を()ねで焼いで売る者(パン屋)、オロシヤ語を勉強()て通詞のまねごどが出来るようになった善六みだいな者も居だべ(居ます)。

 俺(おら)も小物、雑貨売りがら漁師の手伝いど、色んなごどに()―出()()た。

 俺達(おらだづ)()んでも、こごに日本人が生活()ていだ、イルクーツクに津太夫という者が住んでも居だど、何か残せるものをど考えで下手(へだ)でも絵を描くべ(描こう)、残そう、誰ぞ日本人の目に留まるごどもあっぺ(あるだろう)ど(はず)めだ絵で()た。

 仕事(すごど)の合間に、苦()がった(すま)暮ら()のごどがら、雪の山越え、氷づいだ大川、馬車の旅で見だ物、オホーツク。ヤクーツク、イルクーツクで目に()た物、記憶に(のご)った物を()()(少し)ずつでも、下手でも絵に残そうど思いま()た」

(参考図―早稲田大学図書館所蔵本、環海異聞に載る「バイカル湖で漁をとる図」)

 

 津太夫が語るに(うなず)きながらも、(吾は)オロシヤ語を勉強して通詞のまねごどが出来るようになったと言う善六が気になった。

この先、オロシヤ語その他についても色々と聞きもしたいのだ。光太夫殿と磯吉殿が所(番町の御薬園)にオロシヤの言葉や生活習慣等を教えて貰いに通いもした日々が頭に浮かんだ。

 

           シ ペテルブルグから使者が来た

「吾は、其方(そなた)()の話に時折出て来もする伊勢の白子の光太夫殿(大黒屋光太夫)と今に(よしみ)の間にあっての、

オロシヤの言葉、生活の有り様等を多くに教えて貰っても居る。

 また、この江戸で耳にした事も有ろう、長崎から和蘭人(おらんだじん)等の一行が来る。その折に、吾は御上(幕府)が知っての上で和蘭(おらんだ)の書籍等を入手し、その書籍をお国の言葉に変えても居る。

 故に善六の話が出たが、其方(そなた)()の知る限りで良い。オロシヤ語、オロシヤの生活の有り様等についてもっともっと多くを知りたいのじゃ」

 驚いた顔をしたは津太夫だけではなかった。三人が三様、目を大きくしている。吾の事を言うに、(仙台)藩の医者の籍にある。この江戸で塾を経営していると言ったが、蘭学を教えている、異国の言葉を訳しているとは言いもしていない。

 儀兵衛だった。

「一緒に居た者の中で、善六は俺達(おらだづ)()らねゃ(ない)漢字も読み書きも出来たべ(ました)。

 オロシヤの言葉、生活や習慣、見る物聞く物に関心を抱き、読み書きを控えでいだのも俺は知ってっぺ(知っています)。

 んだども、俺達の中で一番頭の()いは太十郎だべ(です)。

 オロシヤの言葉、生活習慣に直ぐに馴染(なず)み、オロシヤ人と対等に(はなす)っこ出来るようにまでなっていだー(いたのです)。

(なん)にでも興味を持づ太十郎っしゃ(です)。帰りの(ふね)っこ(オロシヤの軍艦)の中でも、兵隊さん(だづ)とも普通に話が出来て居だのっしゃ(のです)。

 俺達は何がど言うど太十郎を間に()てレザノフ様(オロシヤの親日大使)や乗っていだ兵隊さん、オロシヤ(ずん)(はなす)っこ()ていま()た。

 太十郎の手先の器用なごどは吉郎治がお墓のごどでお話()たとおりだべ(です)」

 津太夫が後に続いた。

「大槻様のお役目、良くに理解できますた。

 俺達の(はなす)が時様(藩主、伊達(だて)周宗(ちかむね))へのご報告ばかりでなぐ、大槻様の今にお役に立づのであればそれもまだご報告の()甲斐があるど言うものに御座(ごぜ)ゃます。

 伊勢の(白子の)船乗りが日本に(けゃ)ったの(はなす)は、俺達(おらだづ)希望(のぞみ)の光でも有りますた。

 んだども(しかし)、後に日雇(ひやど)仕事(すごど)の日に地元のオロシヤ人が言うを聞いで、ああそうだったのがど思うごども御座(ごぜゃ)()た(有りました)。

 光太夫さん達が日本に帰れだ(寛政四年九月、西暦一七九二年十月)のはエカテリーナという女王様の時ですた。

俺達がイルクーツクに着いた年(寛政八年)に女王様は()んで、その(あど)オレキサンダル(・・・・・・・)とか言う王様に代わって居だのっしゃ(です)。

 そのごども俺達の国さ(けゃ)りでゃ(帰りたい)希望(のぞみ)に影響()ていだべ(していたのでしょう)。

(エカテリーナ女王は、寛政八年十月。西暦一七九六年十一月、脳梗塞による急死。時の皇帝はアレクサンドル一世でエカテリーナの孫。環海異聞には「帝王」との表記である)

 正直、八年もすた(経った)その頃には誰ももう御国(日本)に帰れるどは思って居ながったのっしゃ(です)。

お互いに連絡()てはいだものの、皆が日々の生活に一杯(いっぺゃ)一杯(いっぺゃ)だったのっしゃ(です)

 それが、(みずのと)()の年(享和三年、西暦一八〇三年)三月初め。その年その月など忘れるごどが出来ねゃーべ(ません)。

俺達(おらだづ)十三人をぺテルベルグに連れて来いど命令されだ使者が来たのっしゃ(です)」